※この記事はイカゲーム3およびイカゲームシリーズ全体のネタバレを含みます!この記事は既にシーズン3を観た人向けの記事です
うたまるです。
今回はいま話題のイカゲーム3を観たので、この作品のもつ社会批評的なメッセージを社会科学的観点から分析し、その時代的意義と可能性を開拓してゆきたい。またこの記事で本作の奥深さや現代社会の問題の根っこも明らかとなるだろう。
イカゲームはシーズン1が一番評判がよいのだが、ロッテントマトによるとシーズン3は、一般大衆からの評価が低く意識高い系の評論家からのウケがよい。といって海外の偉そうなだけで中身のない映画評論家を僕はあまり認めていないから、この記事では社会批評的・現代社会分析的観点から本作の魅力のみならずその欠点についても指摘したいと思う。
さて、世のブログ記事では既に本作がなぜエンタメ的につまらないのか、という観点の考察が多々なされている。だから、この記事ではそれについての言及は控える。
今回、考察が凡庸になったにも関わらず、この作品を記事にしようと思ったのは、世の中のレビューを見渡してみたところ、どのブロガーもYMYL領域というGoogleの検閲を恐れSEO対策の観点から本作がもつ政治的批評性という重要な意義について論じることを徹底的に避けていると感じたからだ。
これこそGoogleというフロントマンやVIPの思惑通りにブロガーというプレイヤーが、不毛な競争社会で知性を消耗しながらゴシップ記事を量産しているようにしか見えない。
だからこの記事ではくだらないSEO対策など無視して論ずるべきを論じ、作品の生命力を賦活したい!
※たとえば『メアリと魔女の花』は露骨な反原発プロパガンダ的作品でこの作品を論じるのに反原発は避けれないのだが驚くべきことに、解説記事を書くブロガーは箝口令を敷かれているかのごとく原発という政治的ワードを避けて作品の意図を隠蔽して解説する異常事態となっている。民主主義の基礎が破壊されている。人間は馬ではない
あらすじ・ネタバレ
ネタバレになるが梗概を述べる。
シーズン2では、フロントマスターやVIPといったイカゲームの運営、いわば資本家のメタファーを相手に革命的な武装蜂起にうってでる主人公ギフンであったが、デホの裏切りなど諸事情でピンクガードに鎮圧されその決起をくじかれる。
こうしてゲームを戦う目的を喪い、自身の作戦で仲間を多く喪ったギフンは、裏切り者のデホに怒りの矛先をむけ隠れん坊ゲームでデホを絞殺。
また、222番の妊婦ジュニがゲーム中に赤ちゃんを出産、これに立ち会ったクムジャが産婆を努め、ジュニ母子に感情移入、その結果、赤の他人のジュニを守るため血縁の息子ヨンシクを刺し殺す。
ゲーム終了後、デホへの報復を遂げてもぬけの殻となったギフンに語りかけるクムジャ。
彼女はジュニ母子をギフンに託し、それを遺言に自殺。
これで赤ちゃんという新たな戦う目的を与えられたギフンはゲームを戦い抜き、再び犠牲者を最小にしてゲームを終えることを目指す。
ジュニ母子を守るため、デスストのBBのような赤ちゃんを装備して次のゲームに挑むギフン。
しかし、足を怪我していたジュニは橋渡り縄跳びゲームをクリアできないことを悟り、赤ちゃんだけをギフンに託して飛び降り自殺。
そしてラストゲームでは赤ちゃん、ギフン、ミンスを除く残ったプレイヤー達が、民主的とは名ばかりの出来レースの多数決をはじめる。資本の奴隷と化して金に目のくらんだプレイヤーどもが団結・談合して、赤ちゃんとギフン、ミンスを始末してゲームを上がり、安全に賞金を山分けしようと画策したのだ。
しかし、ジュニの元彼にして赤ちゃんの父親、イケメン拝金主義のミョンギが場を攪乱、これにより金のための惨殺パーティーが起こり最終的にギフンと赤ちゃんとミョンギだけでラストゲームの最終セットを向かえる。
ミョンギの猛攻をかわしミョンギが奈落の底に落ちて、残るは赤ちゃんとギフンのみ。しかしラストセットのスタートボタンが押されていなかったためゲームを終えるにはギフンと赤ちゃん、どちらかが死ぬしかない状態に。
ここでギフンは、「俺たちは馬ではない人間だ。人間とは・・・」と言って自己犠牲で飛び降り、赤ちゃんを救う。
これにフロントマンはかつてプレイヤーとして自分がやりたくてもできなかったことをギフンがやり通したことを見届けた格好となり、彼の残した赤ちゃんを救い、島を爆破。
この後、後日談が色々と描かれるがそれは割愛する。
大事なのは赤ちゃんがジュニ→クムジャ→ギフン→ミョンギ→ギフン→フロントマンへと血縁を超えて誤配を繰り返していること。
ラストにアメリカで新たなイカゲームが開催されることが仄めかされ、資本主義の競争社会が決して終ることないものであることを暗示して幕を閉じる。
また、ピンクガードで元脱北者の女性ノウルがギフンの武装蜂起に参加していたプレイヤーのギョンソクを救うのだが、ギョンソクも病気の子どもを守るためにゲームに参加していた。
ラストでノウルが北朝鮮に置き去りにした娘が中国で生きているかもしれないことを知り中国に向かう様子が描かれる。
ようするに、本作は、このくそったれな消費社会で人間としての尊厳を保って生きていけるとすればそれは何故かと問い、その問いについて赤ちゃんや子どもがある種の答えとして示されている節があると思う。
なおこの梗概では、本作の政治的主題と関連性の薄いジュリ刑事のエピソードなどは全て割愛している。
素朴なイカゲーム3の読解
さて、最初に当ブログ定番の深層心理学やフーコーのロジックを使った分析に入る前に、素朴に本作のテーマやメッセージを読解・概観し、これを足がかりに社会科学的批評を加えてゆこう。
周知の通りイカゲームは資本主義、競争社会であり消費社会のメタファーだ。この点は本作シリーズのネタ元との噂もあるカイジと変らない。
※ただし、カイジでは競争社会の問題がパストラール権力を中心に論じたのに対し、イカゲームではパストラールは中心にならない
次に、イカゲームではひたすら国民投票による民主主義の愚かさが戯画的に描写され、現代のSNS政治のポピュラリズムが消費競争社会と一体のものとして批評される。
なので本作はアメリカのトランプなどを意識して経済化・SNS化した民主主義を風刺したのかもしれない。
いずれにせよ、消費社会の象徴たる殺人的競争ゲームは、労働者として搾取されるプレイヤー自身によって欲望され、民主的投票手続きを介してプレイヤーの総意において継続する。だからそういう現代社会の構造的な問題が描かれていると解釈できるだろう。
かくして悲惨なこの競争格差社会のなかで人間は人間の尊厳を喪い、自ら率先して競走馬としてVIP・資本家の思惑通りに殺し合いを演じるわけだ。
またグローバリゼーションの先鋭化により格差は広がり続け、アメリカではロビーイングによる腐敗も起こり、一人一票ではなくXドル一票だとも言われているが、こうした社会問題を背景としているのだろう。
さて、ここまでを踏まえれば、シーズン2での武装蜂起の意味もわかりやすい。
少々、こじつけの感はあるが、これは歴史的にはマルクスの労働階級闘争をベースとする資本家=VIP・フロントマンに対する革命のメタファーと解釈する余地がある。
するとなぜギフンの計画的な復讐譚の中核をなす決起が無残に敗れ去ったかも納得しやすかろう。
エンタメ的な観点でいえば、シーズン1で打ちのめされたギフンが今度こそ悪を打つため、また社会矛盾を打ち砕くため理想を胸にリベンジマッチを挑むわけだから、かりに負けるとしても手に汗握る接戦とかそいういう描写があった方がカタルシスがあり、娯楽性が高い。
この方が一般視聴者からの支持ももっと得られただろう。
しかし、それでは失敗したマルクス革命の賛美、ないしは現実逃避の子ども欺しに過ぎない低俗な大衆娯楽に没することは避けられない。
いわば理不尽な格差社会の経済ゲームを巡る人類史的な戦い(マルクス革命の失敗)を忠実になぞり、児童空想的解決に耽ることのない本作のシナリオ展開からは、今日の僕らの生のただ中にある許容しえない経済合理性のもつ非人間性と理不尽に諸個人が本質的に立ち向かえるだけの現実的な何かを紡ごう、という監督の気概を読み解く余地があると思うのだ。
しかるにイカゲーム3はポストマルクス時代の経済ゲームのなかで馬にならずに人間性を保って生きていく原理を模索すること、この今日の現実から発するという現在性の哲学として人間の条件を問おうという意欲的作品だと思う。
さらに、このありふれた王道のラインに沿って、平凡な読解を続けてみる。
すると本作でVIPと呼ばれる資本家たちの立ち位置がイカゲームを視聴する視聴者の立ち位置とそっくり一致していることに気づくだろう。
VIPはゲームに干渉することなく、まるでネットで動画を観るように彼らのゲームを外部から娯楽として視聴する。
それゆえVIP・資本家は視聴者のメタファーだと誰でも気づく。
しかし、視聴者のほとんどはプレイヤーであって人口比率でいっても人類は馬のように働く層がもっとも多い。
それゆえプレイヤーの側もまた視聴者のメタファーとなる。この欲望主体の二重性が本作の読解で非常に重要なポイントとなるが、それは後の項で詳しく分析してゆこう。
さて、それでは本作はマルクスの敗北した時代、ギフンの武力革命が敗れ去った後の労働者が何をよすがに人間の尊厳を保つと考えたか。
その答えが赤ちゃんであろう。
この赤ちゃんは名無しの赤ちゃんであり、人間以前の存在であってまだ人間=社会人ではない。
IDを持たない現実界の赤ちゃんといってよかろう。
ギフンらはそんな赤ちゃんを欲望して奮闘するわけだが。
この赤ちゃんに関して本作で見逃せないのは、血縁VS誤配、の構造を反復している点だ。
あらすじにて紹介した通り、産婆役をこなすクムジャは実の息子を殺してまで、赤の他人の赤ちゃんとその母に入れ込み家族的紐帯を結ぶ。血縁関係より見ず知らずの赤ちゃんを介した超血縁的な家族的連帯が優先されるということ。
さらにラストゲーム、赤ちゃんの父ミョンギとギフンが戦うが、こちらも血縁の父子関係より、見ず知らずのギフンと赤ちゃんが強く結ばれる。
このことから超血縁的な紐帯原則として誤配された赤ちゃんが、人間の条件を支える欲望の対象・ファルスとして描写されるところに本作のポイントがあるだろう。
したがって偶然出会った一期一会の対関係が赤ちゃん・現実界を介して取り結ぶ偶発的運命(偶然即必然)の作動を経済ゲームの非人間性・馬化への本質的な抵抗として布置させた作品だと解釈することができると思う。
この観点での分析も後の項で詳しく論じよう。
最後に、本作のポイントはギフンが視聴者・フロントマンに向けた遺言ともとれるあのセリフ、否、厳密には最後のセリフの不在にある。それは語られなかったギフンの言葉。
「俺たちは馬ではない。人間だ。人間とは・・・」
肝心の人間の条件は・・・とされ沈黙が続く。ここに人間の条件が一つの不在として示され、視聴者はそれゆえギフンは人間の条件に何を欲望したのかと考える。まるで自問するかのように、ギフンという他者の欲望を欲望してゆくわけだ。
このように視聴者に主体的にそれを解釈・欲望させる構造、この構造が本作の中核をなすのだろう。
以上の平凡な読解を下敷きに本格的な分析にとりかかろう。
※主人公が死んで赤ちゃんが残る場合、ユング派的には生と死のイニシエーションという観点での分析がなされるだろうが今回は尺の都合でユング的な分析は割愛する
精神分析で読み解くイカゲーム3
さて、本作は監獄的であり、監視と管理が支配する規範化社会がモチーフであって、人文知に明るい人ならば、まっさきにフーコーのディシプリン権力の観点からの洞察を思いつくだろう。
あるいはホモルーデンスのいう遊びを、本作のゲームと照応して、ゲーム=遊びのプラクシス化を人類学的観点から分析しても面白いかもしれない。
この記事でも後にフーコー的な観点からの考察を加えるつもりだが、まずは王道の精神分析的読解を施して観よう。
※以下の精神分析的な分析での解説は分かりやすさと短さを優先するためしばしば不正確なところがある、全部の理屈を誰にも分かるようにきっちり説明すると非常に長くなってしまうのだ
VIP・フロントマンと超自我
精神分析的観点で欠かせないのは、VIPの立ち位置とプレイヤーの立ち位置、および両者の欲望の関係性にある。
既に示した通りゲームを外から視聴し干渉はしないVIPどもは視聴者の分身であったが、プレイヤーもまた視聴者の分身となっているのだった。
それでいてギフンはVIPを相手に革命を仕掛けるわけだから、本作での視聴者は非常に乖離的、分裂的なところがあるが、
VIPは視聴者の超自我に相当する。超自我とはフロイトの提唱する心的審級の一つで、禁止を迫る父が死んで不在と化すことで、その禁止の法・禁止を迫る父が個人の心へと内面化したものをいう。この内面化した禁止を迫る大他者の審級を超自我と呼ぶ。
だからVIPは現実界の超自我と呼んでもよい。
※補足:たとえば尊敬する人物が死んだりその場にいないとき、その人物だったならこの場合、どう考えるだろうか、と考え自らの行動を律することはよくある。このように内なる他者の欠如が自らを律する。しかし超自我そのものは本質的には死を要求し享楽せよという内なる声であり、理想にも属している
このようにいうとVIPはプレイヤーと対立する具体的な実在の人物として描写されているじゃないか、との反論もあろう。しかし本作のVIPは超自我のモチーフに過ぎないのであり、それゆえ記号的といえる。
そして何より、ラストゲームのクズプレイヤーらに顕著だが、そもそもゲームを継続したい、との欲望は誰の欲望だっただろうか?
VIPの欲望である。もとよりVIPの娯楽として開催されているのがイカゲームなのだから、これはいうまでもない。しかし、本作でゲーム継続を決定するのはプレイヤーなのだ。
したがってプレイヤーは内なるVIP=超自我の欲望を欲望している、といってよかろう。だから抑圧を迫る資本家だとか、悪の黒幕なんてものは実体水準ではないということ。
たんに資本家という想像的な像に布置されているに過ぎない。あるいは成金のような資本家はしばしば超自我との同一化を起こすといってもよい。
※補足:構造的な去勢(不満足・大他者の欠如)を具体的な人物の仕業だと誤認する現象を想像的誤認と呼び、この誤認に対する処置が性規範を構成する(分離後に疎外を否定すると男、分離に固執すると女)というのがラカンの理論であるが、この誤認が人間の根源的な幻想を構成し自由意志の核となってくる
それゆえ、革命は成就しない。もしかりに、革命を達成しても革命を起こした人たちもまた超自我と同一化を起こしているに過ぎない。
この革命の原理的な不可能性を示したものとしてラカンの大学のディスクールというのもあるほど。
※ラカンの四つのディスクール論については気が向いたら解説記事をあげるが、なぜ抑圧する権力者・資本家を措定する革命のロジックがうまくいかないかについては、当ブログの未来予測をした記事やメタ論理についての記事を読むと分かる、いずれにせよプラクシス系の社会科学は問題を解決できない
またVIP=超自我とは内なる他者であり、僕らがよりよく生きようとするときに自ら率先して隷属する無意識・構造の主体ともいえる。
より分かりやすくいえば、VIP・超自我はこの場合、経済合理性がその合理性において不可避に内在する価値付け・欲望のこと。
超自我と主体との融合、合理性の秩序から個人主体が距離を取れなくなること、欲望における欠如が埋めたてられること、これをラカン派では父の名が排除されたとか母の欲望が支配的になったというベクトルで考える。現代の消費社会はこのように母の欲望と距離がとれなくなった父の死に典型されるが、このような状態がVIPであり、VIPの欲望・命令を欲望してゲームを続行するプレイヤーなのだ。
※厳密には現代社会とは父の名の排除というより、疎外における他者性・非自己性の消失にあるがそれは割愛する
母性の問題について補足すると、日本の女性が美貌と年齢による一様序列を好み、ブランド物をやたらと欲しがることにも顕著だが、母の欲望は、この点において非常に危険性があるといえる。某レジェンド系の育ママがもてはやされることとイカガームの問題提起は密接に関わるだろう。素朴には馬鹿げた受験戦争・イカゲームをしかけているのは父でなく教育熱心な母親だということ。
※説明が大味で曖昧になったが詳しい説明は他の記事でしているので割愛、ジジェクのいう禁止の禁止が超自我・VIPとの同一化をなし、欲望の死を生じる満足をつくりだすということ
おまけ
先んじてフーコーとの対応を示すと、自ら率先して超自我=VIPの欲望に従属化する主体化の原理をフーコーは権力関係論として、社会の種別的な諸プラチックと対応させて理論化している。
それゆえフーコーは権力を上から権力者が抑圧するもの(マルクス的権力観)ではなく、人々が自ら率先して従属するものだという。だから権力とは大他者の欲望、VIPの欲望であり、それを欲望するプレイヤー=視聴者の欲望そのものに他ならないのだ。
※欲望が欠如=差異をもつこと、この差異がフーコーでいう権力が抵抗を持つことの理由であろう
精神分析を心理的な水準とすれば、その心理的なものの外的な対応を完成させたのがフーコーなのだ。だから二つの理論は照応させることで初めて真価を発揮する表裏一体のパズルといってよい。
※なぜかラカン派を含め深層心理学者はフーコーを軽視している、これは異常事態
赤ちゃんと現実界・対象a・ファルス
次に精神分析的観点から見逃せないのが、赤ちゃんの存在だ。
とりわけこの赤ちゃんが名無しであり社会・象徴界に組み込まれていないことが重要となる。
現実界の赤ちゃんは誰の物でもない。それゆえ誰の物でもありうるといってもよいだろう。
これを一者=S1といったりするが、この数えることのできない名前のない赤ちゃんという単独的でかけがえない物が、その単独性のゆえに交換可能となり、誤配されてゆく点が本作の要となる。
だから赤ちゃんはこの経済ゲーム社会・経済合理性のなかに生まれる矛盾・欠如であり裂け目といえる。
経済合理性が排除してしまった現実が、経済合理性の内部にその矛盾として生じる。その現実界の矛盾がこの赤ちゃんに布置されたと見なせる。それゆえ名無しである必要があったのだと読解すると面白い。
劇中、赤ちゃんの処遇を巡ってVIPやフロントマンが困惑し討論をするシーンがある。ここでは赤ちゃんは222番のジュニの身体の一部と見なすべきだとか、独立した存在だとか言い合ってなかなか結論がでない。
このように現実界の赤ちゃんは、ゲーム秩序・象徴界の法における一つの矛盾として対象化されるわけだ。
誰もが人間となる前に、それであったところのもの、個体識別性を超えた赤ちゃん。
その無識別の存在は取り違いという誤配を惹起し、家族とは血縁か体験共有かという哲学的問いを生じることもあるが、取り違えられるほどに無識別で交換可能だということが、赤ちゃんの絶対的な固有性・個別性・単独性・類似性ゆえに生じる、というのが重要であろう。
何者でもなく誰のものでもなく、それゆえ何者にでもなりうるし誰の物にもなりうる、そのような去勢を経る以前の根源的可能態はその無限定の可能性ゆえ欲望の対象たるのかもしれない。
このような彼岸・欠如に空想される無限の可能性は、しばしば競争社会の矛盾点に投影される。
というのも、現実の社会には理不尽や不満足という矛盾が存在し、人々はその社会矛盾に理想の社会を思い描き、矛盾なき完全な社会を理想として欲望し、現実を変革する意志・主体をうるからだ。
だから社会矛盾は、経済合理性の秩序に穿たれた消費システムの空隙であり、そこにあらゆる可能性としての理想が幻想される。そのような可能性としての現実界のものが赤ちゃんなのであろう。
というわけで、このような経済ゲーム・象徴界の欠如・矛盾が現実界と呼ばれ、その現実界の物の残滓としての意味の欠如が対象aと呼ばれる。
※対象aにはいくつかの種類があるが、対象aは対象の欠如であるところの対象であって、手に入れると主体を死の不安に貶める幻想の核となる、これの詳しいロジックも他の記事で解説してるので割愛
またこの欲望の核たる対象aは異なる精神分析の文脈においてはファルスとも呼ばれる。大他者の欲望というニュアンスがファルスという語には比較的強いが、ファルスという場合、僕の理解では身体や身体像としての鏡像を意味するのだが、
※ファルスは現象学水準では身体のことであり、想像的ファルスは成る対象、象徴的ファルスは持つ対象となる、この身体=ファルスを持つことで時間が構造化されて所有概念が構成される、そして身体は土地に通底し国家を持つことや核保有という次元にも布置されてゆく
ようするに、赤ちゃんという存在が競争社会の矛盾として現れることで、競争社会におけるVIP・母の欲望からプレイヤーが距離をとることができるようになる、ということ。
そしてこのことで、社会矛盾が意識され、既存の社会・イカゲームへの抵抗を欲望し、社会に対して主体的に問題提起をなすことができるようになる。
※この社会矛盾への不満足が理想と現実社会を分離して現実原則を構成してゆく。現実社会・イカゲームに満足しきったクズプレイヤーは現実が理想そのものであって現実と空想・理想の分別さえつかない幼児性をもつ
逆に赤ちゃんをしきりに抹殺しようとするプレイヤーは経済ゲームの矛盾をなす現実界を排除してしまっている。
※現実界とは僕たちが感覚する直接の現実世界のうち社会的な意味付け・対象化・言語化によって排除されてしまった直接の現実性のこと。意味づけたり名付けることで現実の対象(の存在)は、言語によりその単独個別性を捨象されて記号・単語・言語的意味へと同定されるわけだが、このプロセスにおいて捨象された部分が現実界を構成する
このような社会矛盾としての現実界の排除による現状の社会・経済合理性への絶対的肯定が消費の奴隷を生み、人間を人間から経済ゲームの競走馬に変えてしまうのだ。それゆえ、彼らは赤ちゃんという現実界の矛盾を排除しようとする。
※この現実界のS1の排除が大学のディスクールに相当する
だから社会の欠如・現実界のものを介した主体性が人間の条件たる自由を構成する、ということで、この欠如・社会矛盾を媒介するものが赤ちゃんなのだ。
繰り返すが赤ちゃんが名無しなのは人間以前としての現実界のもの性をよく示す。
以上から社会矛盾の彼方に幻想・空想される可能態としての未来=理想=赤ちゃんこそが経済ゲーム・経済合理性の構造それ自体が内在するVIPの欲望から距離をとる鍵だといってよい。
※VIPは実体ではなく合理性を構成する構造それ自体として構造を時間規定し構造に内在する欲望の想像的な像に過ぎないが、マルクス革命ではこれが実体化されてしまう
ギフンの遺言と人間の条件
本作のテーマであるギフンのセリフを精神分析によって観てゆこう。
「俺たちは馬じゃない。人間だ。人間とは・・・」
前述したように、このセリフはセリフそれ自体の欠如に真価をもつ。ここではギフンという作品の主体、監督の欲望、大他者の欲望に欠如が創り出されているのが分かる。
つまりこのセリフ・欲望の欠如は人間の条件・作品の意味が欠如していること、ここで人間の条件とは人間の意味であり理想的なあり方であり鏡像を示すと分かる。
だから理想は現実社会における欠如に布置され、それ自体、本質的に欠如したものといえる。当ブログの他記事で何回も指摘しているがギリシャ神話でパンドラの箱に希望だけが残って、世界に希望が欠如したとき逆説的に人類に希望が残されるのは、希望=理想は現実社会の欠如に他ならず、またこの欠如こそがプロメテウスのもたらした叡智の炎の効果に他ならないことを意味する。
※西部邁が理想なき現実、現実なき理想をともに唾棄したのもこのため
だから、もしギフンが人間の意味と条件、その理想を格言のように言い切ってしまうと、もはや人間が自己存在の意味を主体的に考える動機をもてなくなる。イカゲームの監督も語っていることだが、人間とは規範や型に嵌めることはできない。だから最後のセリフは欠如している。
神が答え・意味を与えてくれる時代ではないということ、だから作品の神であるギフンは、神=父が近代に死んだように消え去らねばならなかったと読解する余地がある。
いずれにせよ、肝心のところが欠如しているからこそ、視聴者は必死にその欠如を埋める言葉=理想を主体的に欲望する。つまりギフンの欲望=欠如を欲望するわけだ。
これは名無しの赤ちゃんを欲望するギフンら一部プレイヤーのあり方となんら変らない。だからここでは欲望のメタ構造が創出されているとみなしてよい。
この意味で本作は意欲的なメタフィクションをなす。超自我=VIPの享楽せよ!という命令を超えること。つまり革命の欲望やゲームの勝者になり賞金を独り占めするという超自我の命令とは異なる欲望・欠如の経路を開くこと。主人公がマルクス的な失敗を経てポストマルクスの現代に開いた経済ゲームの外部へと向かう欲望の迂回路を歩むことを視聴者にオーバーラップさせるための装置として、この遺言・欠如は機能しているのだ。
ギフンがゲームで赤ちゃんという欠如・矛盾を欲望して人間性を回復したように、視聴者はギフンの欠如した言葉を欲望して人間性を回復する構造になっていて、ギフンを追体験するようにできている。
というわけでVIPを母の欲望とすれば、ギフンは父の欲望といってよいだろう。このようにいうとファルス中心主義とか父性主義だと批判されるかもしれないが、実際にここでいっているのは、むしろ赤ちゃんを介したそのつどの現在性において自己の根源を捉える姿勢であり、これは女性の式に対応する。
現実界の水準に準拠する赤ちゃんと一期一会の時間意識は父性主義とは本質的に異なる女性主義である。
だから単純にこれをもって僕の読解を父性主義やプラトニズムと決めつけるのは無効であるが、
ようするに、VIPという大他者の欲望はなんの欠如も持っていない命令だということ、それは計算機で完結できるような無機的で決定論的な数学的合理性に還元できる。かかる合理の命令はただ数字=お金を最大化するだけで、その欲望には人間のいかなる主体性も自由もない。
そこでは自身の欲望と超自我の命令は完全に同化し、誰もが自他の融合する、夢と現実の混淆した世界を生き、その結果、大衆は超自我の禁止を他者へと向き換える他責思考へと駆り立てられる。
他者を蹴落とし、殺戮を享楽する狂気的馬の誕生である。
だから大他者の欲望(セリフ)が欠如すること、つまり大他者の欲望と自己とに距離が生じること、この差異であり欠如が社会を内省するリフレクション=批評的眼差しであり自意識、人間の自由を生じるのだ。
それゆえ本作のテーゼはたんなる社会批判を超えて、批評水準にあるといってよい。
以上が精神分析をつかった分析となる。
この作品の素晴らしいのはやはりプレイヤーが自発的にイカゲームを続行していて、それが資本家の欲望・命令を自発的に欲望することとして描かれている点だろう。この構造描写はマルクスを超えている。
よくVIPの記号的描写を批判する視聴者も多いがVIPは構造的な布置に過ぎないから記号的であるのがふさわしい。下手にリアリティを出してしまうとマルクス主義的な権力論に呑み込まれて、あたかも具体的な黒幕が物理的に存在しそいつが搾取している、という空想を強化してしまう。
つまり脱陰謀論・脱マルクス革命論の構造水準にあるということ。
享楽社会と薬物中毒
本作ではドラッグがキーアイテムとして登場する。サノスが十字架のペンダントに隠しもっていたアッパー系の薬が頻繁に登場するのだが、こいつをキメるとハイになって経済ゲームを続行するようになる。
だから薬切れを起こすと、これまでゲーム続行に投票していたのに、反対に投票するようになる。
ようするに消費社会で人間を消費の馬に変えるのは薬であり、その本質は商品消費のもたらす依存症的な享楽だということ。ここで薬物は商品消費のメタファーと見なしてよい。
エンジョイ・コカコーラという感じで、清涼飲料水は飲んでも飲んでもとまらない依存症をつくりだす。あるいは止められない止まらないかっぱえびせん。
この反復する消費の享楽・薬物依存症が資本主義のディスクールでは現代鬱病を構成するものとしてマテーム化されている。
※消費社会と薬物・享楽との関連は映画ソーセージパーティーが分かりやすい、ソーセージパーティーに関しては当ブログで解説記事を出している
また十字架は原罪のメタファーでもあり、強引に解釈すれば、原罪=死としての享楽と捉えることもできる。消費とは主体性の死であり、人は消費において死を反復するともいえる。
たとえば、SNSなのでフォロワーが増えることで承認欲求を刺激され、その快感がくせになって、終ることのないフォロワー数稼ぎゲームに狂奔し、いつまでもイカゲームの継続を欲望し続ける、というのに近い。その末路はジャンキーであり、最後には破滅する。
※現代鬱病をこの観点でフロイトの現実神経症論と結び、その機序を提出したのがラカン派の松本卓也だが、その理論については当ブログの松本卓也の本の要約記事でも解説している
郵便的誤配と赤ちゃん
フーコー論に入るまえに、東浩紀の郵便理論と本作の対応を示しておく。
ただし、僕は東浩紀の本はゲンロン0しか読んだことがなくそれも数年前に一度読んだきり。
もともと本などほぼ読んだことのない僕が、読書をしようと発起したときに最初に偶然読んだのがゲンロン0だったのだが、
東の哲学は僕の中では自己啓発水準のもので哲学水準とは言い難く、現実性という点で不足を感じる。
しかしながら本作の血縁VS誤配の家族的紐帯の描写は、いかんともしがたいほど東浩紀の郵便概念を僕に想起させたので、やむなくこの観点での考察をせざるえなくなった。
東はダーウィニズム的な人間観を否定して、恋愛や子どもを誤配であり偶然性の産物だという。
さて、ダーウィン的・生物学的には子どもは遺伝子選別の産物であり、恋愛とは遺伝子の相性のよい相手を選ぶこと(子どもの選択)、その相性が子どもの遺伝的形質を確率的に選別することにつながる、と考える。
だから子どもに誤配と偶発性を見出す東の人間観・家族観は反ダーウィニズム的趣がある。
さて、この点を本作に照応させると、前述した通り、赤ちゃん=子どもの誤配=コウノトリの偶発的配達が血縁関係という嫡子的・血統的な正規の配達・選択を超えてクムジャやギフン、フロントマンといった他人へと誤配達されてゆく。
さらに本作ではこの誤配ネットワークによる超血縁家族的連帯が、血縁家族と競合させられて、血縁家族の紐帯に勝利するというセンセーショナルな描写が二度にわたって繰り返される。
※クムジャの息子殺しなどは僕には監督の誤配論のメッセージと思えてならない
本作のこの描写はダーウィンの嫡子にあたるドーキンスの利己的遺伝子論の全否定であり、かかる意味において反ダーウィニズム的な家族・誤配連帯に人間の条件を見出すものと読解できよう。
またこれには人間とは馬のような動物ではない、人間と動物(生物学的対象)では全く原理が違うという含意もあるのだろう。
※自然主義者や形式論理主義、主流派経済学者などは過度の抽象化により人間社会を動物化・生物学化する傾向がある
※ダーウィニズム批判と性的マイノリティへの差別の抑止は密接に連動する、レイシストはダーウィニズム的な種の保存の理論で差別をするのが定番だ、そういう意味でも本作の人間観・連帯感は見逃せない
さらに、すでに他記事で解説しているが、僕の理論でも他の人の理論でも、ダーウィニズムは経済合理性と対応する。だから反ダーウィニズム的な連帯の描写はそれ自体で、潜在的には経済ゲームのディシプリンへの抵抗をなす思考様式たりうる。そのため経済ゲームへの抵抗としての人間を説くことがドーキンス/ダーウィン流のプラクシスな人間観の打倒として提出されていると考えることができる。
つまり、経済ゲーム/ダーウィニズムの打倒が、クムジャの息子殺しであり、ギフンとミョンギのシーンの本質だという読解だ。
人間を動物・馬とみなして生物学的合理性/経済的合理性の枠におしこむプラクシスの社会科学への抵抗として、ドーキンス・血縁を超えた連帯に人間の条件が見出されている、といってもよい。
だから本作における俺たちは馬ではなく人間だという主題とクムジャの息子殺しはリンクしているのだ。
さて、東もこの誤配的なネットワークをイカゲーム的な経済ネットワークに対する抵抗として提唱する。
そのなかで東は経済ネットワーク、つまりイカゲーム的なモボクラシー/SNS経済政治的連帯をべき乗分布のネットワークとする。
※べき乗分布とは、身長や体重に代表される正規分布のような上限が一定以下の数値に収束する分布ではなく、上限に際限のない青天井な分布のことで終わりなき無限の欲望を惹起する。富の偏在やフォロワー数の分布などがこのべき乗分布の典型となる
べき乗に抵抗する人間性の要となるネットワークが郵便的誤配と呼ばれるわけだ。
誤配はネットワークにおける完全なランダムの配線のことで、偶発的な一期一会の出会いを意味する。
この偶発的な出会いの連帯を支えるのが東によると家族的類似性だという。
ようするにどっかが親しみあるものと部分的に似ているから、親しまれているものが他の何かへと投影されて、その部分的な類似が連鎖し、連帯を拡張してゆくということだったと思う。
ともあれ、本作を観るとこの家族的類似性と呼ばれたものの正体はたやすい。
僕の勝手な理解よるとそれは、赤ちゃんの身体であり身体反応のことだ。赤ちゃんというのは個別性が希薄で姿も形も顔もそっくりだ。それでいてかけがえが無く単独的でもある。
共通感覚的な可愛さを持っていて、赤ちゃんをぞんざいに扱うなど禁忌、理由は分からないがそれは許しがたいと万人に思わせる謎の魔力がある。
こういう普遍性のある謎の魔力をアリストテレスは共通感覚と呼び、これがクオリア=イメージとも緊密に関連してくるのだが、それはさておき、
この魔力の根源がまずその容姿に求められるのは必然であろう。
だからその容姿は個体識別性を超えたものであり、この身体的な容姿の類似性・元型性が赤ちゃんの取り違いという誤配を誘発する。
※赤ちゃんが単独的だが交換可能とはつまり、赤ちゃんは身体的外見はどれも類似していて似ているが、にも関わらずかけがえなく、かけがえないから代わりが一切きかないということ、交換可能で交換不可能ということ
それゆえ家族的類似性とは現実界のもの、つまり名前なしの人間以前の存在としての赤ちゃんに求められると思う。現実界のものが誤配ネットワークをつなぐ媒介項となる。つまり誤配的紐帯の触媒が現実界の〈もの〉なのだ。
もとより現実界のそれは交換不可能にして交換可能となるものである。
※これをS1→S2という症状の一般理論・疎外の式にしたのがラカン、この式における疎外の運命を軸に現代の物語を読むことがもっとも重要となる
東の誤配と家族的類似性を現実界と共通感覚=情動感染の理論から本作に探るとこういう感じになると思う。
いずれにせよ、赤ちゃんとは我々がそれであったところのモノであり偶発性に他ならない。
また、読んでないが東の訂正可能性の哲学との対応をいえば、赤ちゃんの現実界的な存在の偶発性が、つどの断絶に相当し、硬直的自己同一性=否定神学的秩序=イカゲームのルールにおける矛盾に対応し、自己の訂正が生じると考えることができるかもしれない。
※情動とは鳥肌という身体化を伴う感動や涙という身体性もともなう悲しみのことで、身体化された感情を示す感染的感情・共通感覚のこと
余談だが東浩紀であれば、この根源的な赤ちゃんをフロイトの不気味なものと対応させるのかも知れない。
不気味なもの・亡霊と現代社会のオルタナティブな主体構成の論理については、僕の気が向いたら九龍ジェネリックロマンスの評論記事でドゥルーズのシミュラークル論を援用して論じようと思う。
ともあれ、いま人間主体の歴史の変曲点に位置するこの時にアニメや漫画、映画の分析は非常に重要な局面を迎えている。
それだけは確かである。
哲学や思想といった学問が商業主義の汚染を蒙ってYouTubeで急速に劣化するなか、商業的な映画やゲーム、アニメはその逆に、どんどん洗練されている。
※超血縁的家族は日本のイエ社会に典型され、たとえば高度経済成長期を支えた終身雇用の会社では社員は家族であった。かつての丁稚制度なども超血縁的家族連帯をよく示すだろう
フーコー入門とイカゲーム3
精神分析的な分析をフーコーの理論によってパラフレーズすることで、本作のフーコー的な側面を読解してみよう。
ディシプリン権力とイカゲーム
フーコーの観点で本作を概観した場合、イカゲームの世界は監獄であり強制隔離の装置ということになる。
フーコーはその権力関係論において、近代主体水準の知でありディシプリン・学問規律を論じた。そのためプラクシス水準にある国家実定化をなすマルクスの権力論を否定する。
その否定は以下の四つのマルクス的権力論の否定に絞られる。
※やや記憶が曖昧だがだいたい以下の通りだったはず
①権力を所有する権力者・資本家が、社会システムや生産手段を通じて諸個人・労働者階級を抑圧しているというような所有物としての権力の否定。そうではなく権力は関係であり下から要請されるもの、厳密には下からでもなくディスクールの戦術的網の目にあり常に抵抗を生じて差異を持つものとする。
②権力が国家機関などに局在化しているという考えの否定、権力は遍くあって網目状、多様な戦術と抵抗の差異をもち、権力に外部などない
③権力が経済のみに支配されているというマルクス的考えの否定。そうではなく性や監獄、病院、さまざまな種別的なプラチックにおいてある。
④権力がイデオロギーによるという考えの否定。そうではなく知において規定され、また知を規定する。
※知とはディスクールに相互依存して真理生産の土台となるが、対象を可能とする諸科学などであり、たんに構造的なものではなく諸ディスクールやエノンセの錯綜する力学的関係にある網目、分散的で諸可能性をもつ諸ディスクールの諸規則性という感じだと思う
僕の理解では権力は、ラカンでいう欲望に相当するのだが、さておき
③がイカゲームと関係する。フーコーは経済の生産システムに諸個人を組み込むのは強制隔離の装置によるのだという。たとえば学校はその典型だ。子どもを隔離する学校に通うようになると、時計で計られる時間にその生を組み込まれ、時計的な時間秩序のもとに主体・自己同一性を再編成されることとなる。
このような時計の時間、一般化された時間、数えられる時間の制度へと子どもを組み込む学校という場がまずもって経済社会における時給という対象・概念を可能とするのは言うまでも無い。経済活動の根源は何よりもまずこの数えられる普遍的な時間、国家的時間の誕生にある。
お金という数えられる価値は、同じく数えられる時間とセットとなる。
※こうした一般化された単一の時間の支配が学校の国語・母語教育と連動している。方言というヴァナキュラーな言語を消去することとヴァナキュラーな時間を消すのは同じ
また学校では時間割を守りチャイムがなりというように、集団が単一の公共的時間規則に秩序づけられ、その秩序のうちに諸個人が個人化されるというプロセスになっている。
そして、このような国家の時間、つまり個別の場所を社会空間へと去勢して、個人化をなすところの共通時間は歴史的には高速鉄道網と関係をもつ。JR(旧国鉄)が非常に国家権威的に感じられたならそれはこのような歴史によるのだろう。鉄道によって個別の場所、ヴァナキュラーな言語も時間性も去勢され、国家を中心とした場所の空間化・均質化・画一化がなされて社会空間と移動主体が編制されたということ。
かかる場所の空間化・時間の一元化がパノプティコン監獄の誕生であり、学校、精神医学の誕生とも連動しているわけだ。
※既に空間と場所と言語の連動の理論は他記事で詳しく解説しているので詳しくは割愛する
さて、イカゲームは人々を監獄・学校のような施設に隔離し監視している。だから、このような隔離の装置が経済ゲーム=イカゲームへと主体を組み込むというわけだ。経済的な競争社会を批評するイカゲームにおいて監獄・学校的な建造物を描くことの正統性はここにある。
かかる隔離装置としての学校をフーコーはディシプリン権力のモデルとして捉える。ディシプリンとは規律化、調教、身体訓練のことで身体に働きかけて規律を内面化する権力を示す。これはパストラール権力と並ぶ個人化する権力の一つだ。
するとイカゲームにおける監視カメラの意味も分かりやすい、このような監視の建築構造をパノプティコンとよぶが、パノプティコンは近代に登場した新しいタイプの監獄で中央の監視塔から各囚人の牢屋を監視できる構造になっており、逆に牢屋からは監視塔の中が見えなくなっている。このことで監視塔に誰もいないときでも囚人は監視されているかもしれない、と考えて勝手に規律に従属するようになる仕組みだ。
現代のパノプティコンの典型が監視カメラだが、これは監視映像を見る人物をカメラで監視されている人が観ることができないので、パノプティコンとまったく同じ構造だと分かる。
かくして監視社会の建築構造が監視者・VIPである他者の視線・欲望を自身に内面化する権力関係を構成するにいたる。このような他者・VIP(超自我)の視線=欲望を介した欲望の構造化が規範に自発的に隷従する近代的人間なるものを生じる、というわけだ。上から抑圧されるのではない、人は自ら進んで規律規範へと従属する。権力とは欲望されるものだということ。
つまりイカゲームでゲームの継続を決定する投票において、自ら率先して継続を欲望して続行に票を投じるプレイヤーは、この監視者の視線の内面化に起因すると見なせる。
繰り返すがイカゲームでは監視カメラがパノプティコンの監視塔・超自我に相当している。
またイカゲームという資本主義が要請する過酷な競争ゲームはそのまま受験戦争にも通底すると分かる。ライバルを蹴落として合格を競う受験戦争ゲームはまさにイカゲームそのものではなかろうか。試験に落ちれば人生の落伍者というわけだ。イカゲーム3では負けると転落死するゲームが多々あったが、競争社会で試験に落ちることのメタファーなのかもしれない。
※韓国は受験戦争大国の一つに数えられる
生権力とイカゲーム
フーコーは近代の権力は人を生かす権力だと言い、これを生権力と呼ぶ。
生権力では全体化する政治と身体に働きかける個人化するものがあるのだが、人間をナンバリングして番号で管理するイカゲームのあり方は全体化する生政治に対応する。
権力が知に依存することは前述したが、全体化の知とは人口や医療統計に関わる。メタボ健診だとか統計的な肥満率を割り出したりといったものはこの全体化の典型だ。
したがってナンバリングの意味は生権力における全体化の暴力といってよい。
最近だとAIなんかのビッグデータも生政治における全体化の例だろう。
ここでルールの矛盾として現れた現実界の赤ちゃんが222番としてゲームに組み込まれたことを考えたい。
赤ちゃんは一見して認められたかに見えるが考えようによっては排除されたように見える。
222番はジュニでありそのIDに赤ちゃんを捨象して同一したような処理がなされるが、これは規範へと現実界の矛盾をおしつけて、真理・秩序のもとにそれと矛盾する現象を排除したと解釈する余地がある。
つまり赤ちゃんはどう見ても222番ジュニではないのに222番という既存の規範秩序に押し込められたということ。
このような現実そのものを無視し真理の体制によって現実界を排除するのが生権力の数字の暴力だ。たとえば知能指数は典型的なディシプリン的な規範だ、これは統計的な数値化テストで測れない、つまり人間の知性のうち数値化できない現実界の領域は全て無価値として意味を与えられずあたかも存在しないかのように排除してゆく。
こうして学校の試験の点数だけが知性として価値化され他の要素が排除されるのもそうだが、こうした人間の定量化による捨象をともなった全体化管理、統計処理が定量化された資格・規範の価値を肥大させる。
そしてこの規範、たとえばギフテッドとか弁護士とか医者とか東大王とかに一致しようと人々は狂奔する。
また、こうした規範は経済合理的に編制され偏差値みたく階層化してゆく。
最近だとギフテッドやMBTIなんかはこの規範の最たるものだろう。MBTIという規範・恒常的な自己同一性に率先して自らをカテゴライズし、この規範をもとに適職を定め、経済社会へと自らを組み込むということが起きている。
こうしたディシプリン権力に関わる自発的な規範化はときに個人の権利・主権すら脅かす。
たとえばデブはデブというだけで不遇な目にあうがこれもスマートとか健康体という医学と関わる規範化・境界画定によって起こる人権をないがしろにした規範化の暴力の一例とえる。
※生権力では健康が倫理に結びつき、たとえば喫煙者は悪だ!となり、医学の力が肥大してゆく、コロナ化のマスク警察もその善し悪しは別として、医学の規範化権力の例だろう
規範化とは医学化といってもよく医学の知と身体の医療コード化は、ディシプリンと規範化社会の根幹をなすのだ。たとえば医学の診断知では定量化によって高脂血症=異常/正常を分類し病気を対象化したり疫学統計によって治療効果の有無を確定してゆく。このような統計的で客体的、定量的な対象認識と患者のカテゴライズ、自己身体管理は、現代の消費社会の規範や規律の根幹となっている。
ここで重要なのは定量化できぬものが排除されて定量化されたものの価値が過剰化すること。たとえば思い出の品をメルカリに出品しても思い出は定量化できない実存価値なので価格価値に反映されない。すると思い出みたいな実存的なものは排除され金・価格だけのクズが増える、こういう問題が医学的な生権力によって生じ経済合理性の奴隷をつくりだすわけだ。
※人間の内面(主観・印象・意味・実存)は物理的実体がないので客観的観測可能性がなく客体化しえないが、これを医学診断のように客体化して規範をこさえることで自由意志と責任主体が誕生するが、この自由の構成機序が逆説的にも規範への従属化を内在することがフーコーでは問題構成される
※医療における医者/患者の診断真理の関係・自他関係=パストラール関係のあり方、医者が患者の告白を解釈・診断し患者を意味づけ規範化するあり方が、診断知の編制と連動しており、この原型がキリスト教の告白にある、これはそのまま学校の教師/生徒関係にもいえる
本作のナンバリングと赤ちゃんの扱いは、このような規範化社会における生権力の全体化や権力のエコノミーの暴力をよく示すだろう。
重要なのはエコノミックな規範化への強迫が極みに達した現代の日本社会でそれと他生的な人権の司法幻想がどのように作動するかだが、それはイカゲームの考察を超えるので割愛する。
※司法幻想はこれから他罰化的なコンテキストを帯びてくると思う
なぜ僕らは消費と競争のイカゲームをやめられないのか
さて、せっかくなので、ここでは本作の描写を離れて、なぜプレイヤーは自らデスゲーム・自己の規範化にのめり込むのかについて考えてみたい。
フーコーは知のディシプリン化が18世紀に起きたという。
知のディシプリン・学問規律とは選別・規範化・階層化・中心化からなるのだが、平たく言うと、グローバルな科学として諸知が規範化・均質化し、階層的に分類され、国家装置によるピラミッド型の中央集権的な管理・中心化が生じ、大学の外部の知が排除されたということ。
知はその内部においてディシプリン化・規律訓練化されたのだ。
ここで知の管理形式として正統教義を廃して言表行為の規則制を管理するようになったという。
これが言表の自由を可能とし他方、厳密で包括的な管理が可能となった。
言表のローテーションが起こり真理の急速な代謝が生じるようになるが、これは言表の検閲から言表行為のディシプリン化への移行なのだという。
さて言表とはエノンセといい、叙述されたまとまりである言説の機能的要素のこと。言表はディスクールを構成する言われたり書かれたりした言葉であり自律的な力動(プラチック)を潜在した要素で言説の外部にある現実の制度や病院・学校などの制度場、物理的条件や歴史制などの規制においてある。
※言表=機能は対象・主体・概念・戦略の要素をもち言表体系は希少性(偶発性)・外在性・兼任性にあって、これらはそのまとまりが潜在する分散性・偶発性・非連続性の解放を洞察する戦略的な概念であるが、細かい解説は長くなるので割愛する
言表行為とはエノンシアシオンといいその言表の行為の水準。主体ともいえるが、語る主体を消去して残る語る行為を示す。つまり言うこと。
※フーコーは認識主体とか意識、内面、内在、超越論的といった近代水準の主体構成概念をこそ問題構成する都合で主体・主語を解体した述語域・プラチックを分析の中心点として、自らの思考水準をズラしてゆく戦略をとっている、そのため現象学的な超越論的主体とか意味作用といった主体水準やラング・パロールといった構造主義的な客体水準を退けてディスクールという第三の領域を提唱する
言表をオブジェクトレベルとすれば言表行為はコンテキストレベルに相当し、僕の理解ではこれは欲望に対応させることができる。
※知のディシプリン化における言表行為のディシプリン化を欲望とか語らい自体の語る動機に対応させるのが妥当かはかなりあやしいのだが、僕はあえてこのように解釈してみた
さて、この言表行為のディシプリン化こそが、現代消費社会におけるインセンティブコントロールの本質と関連すると僕は考える。
知のディシプリンにおいて、ある学問言表=学問の具体的内容は、ディシプリン化した知の中心化・均質化の作用によって、かかる均質化・規範化を欲望されて生じるのだろう。
この中心化・均質化の欲望を学問的な言表行為として一元化・規則制化することが知のディシプリンではないだろうか。
さて、それが消費社会でデスゲームを継続する規範化の欲望と何の関係があるんだ、と思われる読者もいるだろう。
さっそく本題に入ろう。
まずGoogleの検索エンジンについて考えたい。
chatGPTによるとGoogle検索エンジンは検索キーワードではなく検索意図を優先するという。
つまり検索言表より検索行為を優先しているわけだ。
このときGoogle検索では検索言表を過剰に捨象してその検索意図・行為をパターンに類別・規則化・同定している。
これはイカゲーム3の赤ちゃんのような新規の現実をそれと異なる222番という既知のパターンへと捨象・同定することにも対応すると思う。
ようするに、ネットという消費的な制度場において、現実の類型化しきれない複雑で個別的な検索意図・検索行為を一般化された検索行為のカテゴリー(規範)に捨象・同定しているのだ。
したがってGoogleでは検索する欲望・意図がGoogleに都合の良い欲望カテゴリーに置換されていることになる。だからGoogleは人間の検索する欲望をコントロールしているといってよい。
この欲望のパターン化・規則制化・対象化はフーコーで言う対象の編制における出現の諸表面とも対応する。
簡単に言うと、商品消費に結びつき依存症を生じるような欲望だけをパターン化・対象化しており、そのジャンキーな消費の欲望のパターンだけを現実に有効な欲望として対象化。その外部の欲望を排除する欲望の規範化・ディシプリンをネット空間で実行していると考えられる。
もう少しからくりを分かりやすく示そう。
つまりGoogleで僕のようなブロガーは普通はPVを増やすことを絶対的な目的として記事をアップする。検索結果に出てくる情報コンテンツはGoogleの設定した基準にがっちしたものだけ。
こうして検索エンジンでは消費と依存にむすびつく欲望だけが対象化・パターン化され、いかなる検索ワード・検索意図も消費と依存に親和する欲望パターンへと捨象・同定されることとなる。
実質的にはこれで検索者の行為が検索するたびに先回りされることとなり、自発強制的に消費へと企投された状態となるわけだが。
すると検索結果上位に表示される情報コンテンツ=PVの多いコンテンツを創ろうとした場合、消費・依存症の欲望に合致した言表・コンテンツを生産せざるえなくなる。
かくして、情報コンテンツを生産する僕のようなブロガーやYouTuberも、そのコンテンツの消費者・検索者も、自身の欲望を消費の欲望へと扇動される。言表行為・検索欲望がディシプリン化されていることが分かるだろう。
このとき情報コンテンツは知も生産するわけで、権力の経済合理性・エコノミーにしたがって、知のディシプリン化は大学のみならずネット空間でも補強されているように思う。
旧来の社会では言表の具体的内容が検閲対象であったから、逆にいうとその内面、つまり動機・欲望・行為に関しては自由が保障されていた。だから暴力と恐怖で抑圧してくる旧来の権力関係においては、実はその内面は自由が保障されていた側面があると思う。
しかし、知のディシプリン化は欲望コントロールなんであって、まさに監視者・Googleの命令を欲望するように仕組まれているのだろう。このような消費に狂奔する欲望の規則化が自発的に自己を規範化し主体を経済ゲームへと自ら隷従させる。まさに自由意志の逆生産であろう。消費社会においては内面の自由(葛藤・不満足)すらないのだ。
※福沢諭吉は学問のすゝめにおいて‘’古の民は政府を恐れ、今の民は政府を拝む‘’といったがこれも幕府が言表を検閲したのに対し明治政府が言表行為をディシプリン化していたのかもしれない
重要なのは、言表でありコンテンツが解放されたときにこそ、規範化はより暴力的となり、人間の自由は逆説的に消滅するということ。ジジェクは禁止の禁止(禁止をなくすこと)をポストモダンの問題点(超自我との同一化が起きる)として指摘するが、これをフーコーの権力関係論に転移すれば、言表の禁止の禁止であり、コンテンツの検閲の解除、言表行為のディシプリン化に相当すると思う。
我々はあらゆる言表を解放された自由の奴隷である。
さて、MGS2では愛国者=大他者・経済システム・AIが、‘’私たちがしようとしてるのはコンテンツの制御ではなくコンテキストの生成‘’と語る台詞がある。小島監督の洞察の鋭さがうかがえる。まさに現代社会はコンテンツ・言表ではなくコンテキスト・言表行為がAIの経済アルゴリズムによって生成・制御された時代なのだ。
この水準で現代社会を捉えてこそ小島監督の先見性が明らかとなる。MGS2は巷で言われているより遙かに洞察が深い。
イカゲームの続編ではこの知のディシプリン化の水準にある欲望のディシプリン化と経済アルゴリズムの連動を寓話化して欲しい。
ここにフォーカスしてこそ、他者との関係で何が問題となって全体主義的な経済ゲームが構成されているのかが分かり、主体・視聴者が人間性を回復することと経済ゲームが正常化することとの連動機序が描けるはずなのだ。
韓国社会と日本社会
韓国社会ではイカゲームを観る限り、規範からの排除が問題構成されているように思う。つまりゲームに負けて排除される水準が中心に描かれている。
対する日本は、たとえば日本の作品だとカリギュラ2が非常にわかりやすいが、規範・商品・鏡像との差異が問われ、いかに規範と完全一致するか、というような欲望が問題構成される。これを松本卓也の場合は現代鬱病の構造として理論化してると僕は解釈しているのだが。
したがって韓国社会の規範の方が近代水準に近く、日本社会のそれはポストモダン的に思う。
具体的にいえば韓国社会では背が低いとそれだけで大変に不利になるときく。タイにおける肌の色くらいには身長が重要視されるそうだ。
だからKPOPアイドルがわかりやすいがとても背が高い。とくに女性アイドルの背の高さやスタイルが日本のアイドルとはまったく違うことに気づくだろう。また韓国では弁護士などの力が渇望されるという。僕みたいなことを考える奴は消去されるかも。
※韓国産の転生系ラノベ、俺だけレベルアップな件では主人公が転生時に背がのびる
韓国社会は規範の増殖は控えめで、定型規範と自己との差異を自己主体が葛藤する水準が優位だと想像する。そのような社会のあり方がイカゲームという規範から排除される暴力性を描く物語に帰結しているのではなかろうか。
日本社会は比較的、規範や鏡像の側が増殖し、規範の側が人間との差異を葛藤しているかのようなレベルが強く、人間の側に主体が形成されない。つまり定型規範が解体している。
だからある程度知的な層で比較した場合、韓国人のが精神的に大人っぽいかもしれない。
※どちらがいいということではなく両者は連続体と見なせる
さて、権力の経済合理的な規範化と法に組み込まれた主権・権利のコードは他生的であり両者を媒介するものとして、そこに規範化を構成する医学の知が関わるのだが、この興味深い問題に関しては気が向いたらカリギュラシリーズの評論記事を書くときに、ある程度詳細に論じたい。
※大学国家VSグローバリズムとか主権権利の法VS経済規範化の二項対立モデルのみに頼ると原理的に解決しない水準があるが多くの日本の言論人がこの点を排除してしまっている
フーコーでは現代の全体主義を考えるうえでリーガルマインド(人権の法)のみによって諸個人の主権・権利を守ることの原理的な限界がよく示されていると思うが、フーコーは主権権利の法を超えたオルタナティブな規範への抵抗の経路を開削した。
格差社会問題においても国家VSグローバリズムの水準を一定維持しつつ、それとは別の自由プラチックであり場所制の水準を洞察することが絶対的に欠かせない。
イカゲーム3の問題点
さて、ここまではやたらとイカゲーム3の深さを絶賛する内容となった。
なので最後にダメだしをしてみたい。
やはり気になったのが、本作ではギフンは良い人、ミョンギは悪い人、という感じでプラクシス水準で人間が描写されてしまっている側面が強いことだ。
VIPを構造であり内的な他者であり、構造的布置、視聴者の内なる眼差し=欲望へと転移したように、諸個人の経済的欲望の構成もまた構造的布置としての水準を描写すべきだったように思う。
たとえばデホはただの悪い人に見えるし、薬中ももともとダメな奴に見えてしまい、逆にギフンは最初から英雄的であって、諸個人の出来事であり行為が個人の恒常的な人格であり内面に実定化されたような描写レベルにとどまっている。これだと、イカゲーム的なディシプリン権力の知の作動の内側での批評水準になりかねず、本末転倒の感がなくもない。つまりこのような人間観を構成するのが、そもそものイカゲーム社会の思惑なんだということ。
少なくともフーコーはこのことをキリスト教における告白の自己放棄の技術として問題構成している。
本作ではジュノまわりの船のシーンなどが冗長で蛇足なところがあって、全般に無駄とも思えるシーンが多かった印象がある。
だからそういう無駄なシーンを削ってブラッシュアップする余地があったように感じる。
また素朴に観ると、諸個人と経済システムの双方が実定化・独在化されて見えるという問題が強く、こうなると諸個人の意識変容と社会変容との連動機序がまったく排除され、せっかくの人間性の主題も社会変革とは独立した自閉的な自己啓発のごとき印象をともなう。つまり社会は酷いままで変らないけど、この酷い社会でもそれと無関係に清く生きよう、みたいな宗教的自己啓発の印象がなくもない。
そうではなく、つまりマルクスを超えるということは、社会変容と諸個人の欲望の規制との不可分の連動を洞察する水準にある。だからただのエモーショナルなナラティブではなく、同時に社会理論であり哲学となるような水準が求められるのだ。
そのためたとえば、多数決民主主義のエコノミックな側面を問題提起したなら、これをルソーの全体意志と対応させ、ギフンの欲望・欲動の水準が一般意志の生成や赤ちゃん・現実界を重心とした政治的真理の生成と連動してゆくような可能性をかかる欲動の構造としてシナリオに組み込むといった余地があったようにも思う。
リファンタジオとかペルソナ5のシナリオだとこういう構造水準の描写が念入りにシナリオに昇華されていたりするのでできない話ではない。これからの時代は全てがいまだかつてない高い水準になるべきだと思う。
もはや多くの思想哲学者のそれは商業主義に被れて大衆迎合に頽落、劣化を極めている。だから映画やゲーム、漫画が哲学を担う時代が来たのだ。
百田尚樹(大衆迎合・アテンションエコノミー)の時代は終った。
エンタメは脱エンタメ化の時代に到達している。イカゲーム3のいぶし銀のシナリオはこのことを象徴しているのだ。
終わりに:パストラール
今回の分析は紋切り型でいまひとつだが、他の人のレビュー記事を読みあさり、これならどんなポンコツになっても記事にした方がいいなと思って書いた。
この記事程度のショボい考察ならある程度はAIでやれてしまう気がした。
さすがに、当ブログのコジラの考察記事とかになるとAIごときじゃ永遠に無理だろうが。
本音をいうと、満足のいかない退屈な考察、過剰な解釈、迷いだらけの説明、内容に対して長すぎる文字数、この記事を投稿するのは迷った。
※過去にブロークンレイジなど、いくつかの作品考察記事をボツにしている、アドリブで考えながら書いているので書き終わるまでどの程度のクオリティになるか分からないのが難点、うっかり長くなると労力が無駄になるのでボツにしにくい
GoogleのYMYL検閲にへつらう記事が多すぎて辟易している。
本作は政治批評的な俎上にのせてこそ、その本分に叶うというもの。だから逆張りで思いっきりYMYLに逆らって政治的で公共的な議論をぶち込んだ。そしたら反エンタメ的で微妙な記事になった。
ところで、近年、インフルエンサーや教祖系を観測していると極めて重要な現象を確認できる。それはパストラールの変質だ。
僕の考えではフーコーの問題意識は規範からの排除という暴力性にあったように思う。しかし現代の日本ではそうではなく規範と差異が生じることそのものが問題化されて商品・規範の増殖が生じている。
LGBTQA、、、とかHSP何とか型とか。
だから規範であり商品の側に主体が生じるフェーズになっている。
このような資本主義のディスクールに支配された享楽社会では、パストラール権力における告白の逆転が確認できる。
たとえば、危ない政治屋が日本刀をブンブンするパフォーマンスライブを配信したさい、いわば医者・教祖の側が告白をし、その告白であり症状を患者・信者の側が意味づけるという犬笛構造が認められた。もちろんこれは過激な団体だけの特殊事例ではない。
このような事例ではもはやそれが誰の欲望なのか、自他が渾然としていてまったく特定不可能な水準にある。
このような行為の明確な個人主体を措定しえない事象に対して司法はおよそ無力というより他ないだろう。司法の論理の原理的な限界が露呈しているように思う。刑法が前提する近代人間構造が解体しているのだから、どうしてこれを法で裁けようか。
このような国家編制のまま自他が癒着した構造は、日本社会ではもともと強かったようにも思う。
たとえば「ひぐらしの鳴く頃に」では昭和の村社会で封建領主的なボスの意向を村人が忖度して、オヤシロ様事件を起こしていると疑われるわけだから、昭和の日本にも現代社会の犬笛構造を確認できる。
現代では自他関係が癒着を生じ逆転した状態となっている。このようなパストラールは強力な他罰化・他責思考を生じ、幼稚園児程度の精神年齢の危険な大人を量産しつつある。
つまるところ、他者に主体・意味・罪を見出して行為するのが犬笛なわけで、客体に主体がおしつけられたようなおかしなことになっている。自分の意志では行為できず他者に自己の意志を投影するというか、そのうえで他者・客体の側の意味に自己を預ける。このとき主体の引き受けるべき罪・欠如・差異が商品・客体・他者へと責任転嫁されているのではなかろうか。
ウロボリックである。
また、HSPの規範化は極めて興味深い、フーコーの言説の規則制における言表行為の編制の視点から言っても面白い。これを僕は当事者研究のディスクールと呼び、予言者のディスクール、犬笛のディスクールとならぶ現代の自他癒着のパストラール権力関係の表れとするのだが、
HSPでは自らのHSP何とか型という資格規範を自己が自己に与える。だからそれを語り診断できるのは他者ですらなく自己であって自己完結的なウロボロス構造にある。これでは享楽が他者を経ずに循環してしまう。こんなものは人を鬱病にするだけだろう。もちろんこれは当事者研究のディスクールにも潜在的にある傾向だ。
当事者研究を否定しないしむしろ僕は高く評価している、しかしその編制には非常に危険な側面が潜在しうると考える。
おまけ、國分功一郎とフーコー
ところで國分功一郎はフーコーがコンシアンスの意味の変遷に内面化・主体化の危険性をみたように、意志(will)の誕生に従属化=主体化を取り出そうとしているように見えるのだが、彼はこのとき意志はない、という水準で語ってるのではないか、と危惧する。これをすると誤認が排除され他責化を加速するポストモダンへと劣化する言表機能がかかる。また彼は主体性の否定に対して主体に先行する環境因を指摘して見せるが、これもポストモダンのディスクール編制の典型であり、フーコーからの退行水準となる。
フーコーは現実的関係(現実の制度や病院などの制度場との関係)と反省的関係(自己認識、道徳認識)に作用する第三の関係として言説的関係を洞察するわけだが、これはそのまま僕の動態構造論における主体(反省的関係)と環境(現実的関係)のリニアルな因果関係を超えるディスクールの動態構造に対応し、動態構造の域は環境因のメタレベルを構成する。
このフーコー水準において心を病む主体が人間から言説へと移行する。これを僕は、現象学が達成した存在論的先後関係の逆転(エポケー)につぐ哲学における二番目のコペルニクス的転回・セカンドインパクトと捉えている。この転回をおさえずにポストモダン水準でフーコーを誤読して考古学だのと抜かしてはならない。
大衆受けを狙って語るとき、そのように語ることのプラチックを見逃してはならないのだが、いま流行の言論人でここを意識できている人はほぼいないと思う。
※ディスクールの動態構造論については当ブログのラカンの無意識を解説した記事で提唱している
ところで先月、デススト2が発売した。僕はまだカリギュラオーバードーズをクリアしてないのでプレーできていないが、ゲーマーの人は買ったほうがよい。小島ゲームを買うとは、新しい世界、優れた世界を選択することだと言ってよい。
それは山本哲士や竹田青嗣の本を買うのと大差ない。何を買うかが未来を創るように思う。
山本氏の本はアマゾンでなくBASEショップで買おう。どうやら山本氏も新書を出したようである。くだらない大衆迎合を完全に無視した究極の人文知を求める人に山本氏の本は欠かせない。
ところでネットで知的コミュニティを形成している団体だと表現者クライテリオンが比較的にうまくやっているように思う。東浩紀のシラスは僕には消費社会にずっぽり呑み込まれているように感じなくもない。
事実、若手の批評家で高校生の頃からシラスユーザーだった東ファンも、いまではクライテリオンの浜崎洋介の弟子になっている。これが全てだと思う。
やはり動機が全てを決める。よりよい世界はそれを望む限り開かれている。どんな優れた知性も消費社会で承認欲求を拗らせれば腐敗する。
ところで何か少し難解だが圧倒的に深い人文知を求める人にはフーコーをすすめる。そしてフーコーを学ぶなら山本哲士の本が圧倒的に優れている。
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