うたまるです。
アイドル論の記事と同時並行でこの記事を書いています。
すっかり怠けて投稿が遅れました。
この記事ではフッサールの達成、ヘーゲルの卓越した仕事に対して、それでもなおフーコーとラカンが一歩先に進んでいるのではないか、との考えを示します。
なのでこの記事を読めばフーコーが何をしているのか、その基本的なところが掴めるはず。
近代哲学の完成者フッサールと近代哲学に対立した現代思想の重鎮ミシェルフーコーとの関連がいまここに明らかとなる!
今回の記事、人文学書を読まない人にとっては局所的にかなり難しいところあるのですが、フーコーを学びたい人にとっては目から鱗が落ちる良い記事になった気がしてます。世間でバカ売れしてる下手なフーコー解説書よりかは、圧倒的に確実にフーコーの根っこを掴めます。
※本当にフーコーを学びたい人は山本哲士の本を読むのが最適です
ところで竹田青嗣の『欲望論』は名著で僕のような哲学をあまり知らない人がその基礎を学ぶうえでこれ以上の本はありません。この本は近代哲学派の到達点にあります。いま、欲望論一巻を読んでいる途中のおかげで一気にフーコーとラカンの理解も深まりました。
たとえば欲望論の言語の意味の二重性の考察やハイデガーの三つの循環論証についてのくだりは、50年代ラカンの欲望論と対応しており、ここが分かるとラカンの欲望論の理解がかなり簡単になります。
また竹田青嗣のハイデガー批判(頽落や本体論批判)はラカン派でいうパラノイア批判のロジックと似ています。
※僕はまだ欲望論を70%程度しか読み終わっていません、そのためこの記事での現象学の理解には甘いところあり
というわけで欲望論の内容を頼りに簡単にフーコーと現象学との対応を紹介。
といっても僕自体、哲学はまだまだ取り組みだしたばかりでそこまで詳しくないため、また当ブログは書きながら書くことを考えるフリースタイルゆえ、かなり荒削りなスケッチになります。当ブログの記事は全てそういうものです。
※この記事は過去記事で現象学とフーコーとの対応を示した内容の訂正にもなってます。過去記事では僕の理解が杜撰で述語(~がある)と(~である)との区別がついておらず、完全に間違った解説をしていました
現象学と言語の意味の本体論の解体とラカンの関係
この記事では言語の意味の本体論問題を一つの軸に議論を組み立ててゆく。そのため最初に意味の本体論の概要をダイジェストしておこう。
言語と本体論
まずは理解の手引きとして20世紀の哲学における言語の本体論論争について簡単にまとめる。
フッサールはニーチェの生成と存在による本体論解体の仕事を認識論問題の解明へと転移し、これにより古代ギリシャ時代から続く西洋哲学の認識問題(本体論による懐疑主義と独断論の対立)を解消する。
この仕事はただちに20世紀の言語哲学における意味の本体論を前提した言語の意味論争に終止符をうつ。
そもそも西洋哲学では古代ギリシャから分析哲学、ポストモダンにいたるまで本体論を暗黙裏に自明視してきたためゴルギアステーゼと呼ばれる懐疑主義(反基礎付け主義)の問題があった。
つまり存在はない、あっても認識できない、認識できても言語化して他者に伝達できないというもの。
(※これは存在それ自体の超越性、認識に対する存在の超越性、言語に対する認識の超越性を意味する)
近現代における言語論的転回においてこの認識問題は認識ー発話主体ー言語ー受語主体の連絡(伝達)における伝達の不可能性の謎として立ち現れる。
つまり古代ギリシャにおける主観と客観との一致の確かめ不可能性の問題の近現代的変奏として、認識と言語の一致の不可能性の問題が、まったく同じ問いとして反復され、今日に至る。
(※古代では存在と認識の不一致がメイン、現代では認識と言語の不一致がメイン)
かかる現代の言語の意味のアポリアは、もともとは言語の曖昧さを排し、言語使用を論理学的に厳密化整備することで、意味と価値をなす人文学の領域にも自然科学的な厳密認識の可能性を開こうとして生じた。意味の厳密な一致のための研究の結果、意味の一致の不可能性が露呈して、相対主義の優位が逆説的に確かなものとなってしまったのだ。
この試みは古くはアリストテレスにも観られるが、
言語使用の論理学的ルールの厳密化、言語の命題論理化によっては言語の意味の多義性問題は原理的に克服しえず、かえってその相対主義的な曖昧性を補強してゆく。
たとえば、ウィトゲンシュタインのケーレはその典型で、初期ウィトゲンシュタインによる写像理論(指示記号と指示された意味との厳密な一義的対応の理論)の破綻、その帰結としての後期の懐疑主義への転向はあまりに有名。
この意味の厳密同定の不可能性の理由は小学生にも直ちに理解できる。
ようするに言語的伝達においては、私の赤いと対話相手の赤いを直接比較してその一致を確かめることは原理的にできず、したがって正しい伝達はありえない。
それどころか、タンスの角に足の小指をぶつけて痛い!というとき、この痛い!という一般言語表象とそれが指示する痛みのアクチュアルな感覚との同定すら不可能なのだ。
(※同一性の議論は、スワンプマンやテセウスの船など無数のパラドックスを生じる)
またそもそも言語の意味は指示に還元することもできない。たとえばフレーゲの明けの明星と宵の明星の議論が有名だが、どちらの語も金星を指示するが両者では意味が異なる。
他にもウィトゲンシュタインの例、大工が部下に放つ「石板!」という要求、この語も石板というだけで石板を持ってこいというニュアンスになるが、これは持って来いを省略した表現なのか、それとも石板を持ってこいというほうが延長表現なのか、いかなる言語ゲーム(対人関係における要求ー応答ゲーム)のルールが石板!という語の意味をここに規定しているのか、という問題を提出する。
つまり言語の意味の多義性は避けられず、ゆえに語の使用ルールによって意味を収束して、はじめてまともに言語が使えるようになるが、かかる言語ゲームのルールは予め規定したり明確化したりすることができない。
これが後期ウィトゲンシュタインの主張である。
さらに固有名における確定記述の問題。いかなる固有名も確定記述の束にその意味を還元することはできない。たとえば、夏目漱石という固有名の確定記述の一つは男といえそうだが、もし夏目漱石が女だったら、ということができるように、夏目漱石の意味(確定記述)はコンテキストによって無限に生成され、夏目漱石に関する事実関係の辞書的記録には還元されえない。
また、そもそも現実の主張と命題とでは次元も異なる。
かくして意味の多義性は避けられず、その意味の厳密規定は不可能、意味を収束するルールを厳密に特定することもできない。
しかし、こうした言語の謎は全て本体論が創り出す仮象に過ぎない。
ここで本体論とは、この世界(存在)や言語の意味には、客観的なそれ自体としての本体が存在する、という認識論的におかしな世界観(概ね一神教的世界観)のこと。
この根拠のないふざけた本体論的世界観に迷妄することで、論理学的形式論理(真偽命題論理=論理学)による言語分析という発想が生じる。もちろんこの構造はカントのアンチノミーと本質的に相同的で、カント的にいえば、純粋理性や悟性の持つ思考・認識フレーム(論理学的思考体系、時間の線形的因果構造化)によってアンチノミーが仮象として創り出されているに過ぎない。
意味のアポリアはプラトンでいう洞窟の影絵でしかない。
(※真偽命題の真偽とは本体との一致(真)と不一致(偽)を前提する。ゆえに真偽命題とは本体論的な認識の理論面に他ならない。また命題論理はコプラ文法=主語分法から生成される)
(※論理学(自同律、排中律、矛盾律)の生成メカニズムについては当ブログのメタ論理学論考の記事にて解析しているので割愛)
すでに当ブログではしつこく繰り返してきたが、経験的認識(自然的態度)と実際の様態(超越論的還元、先験的)とにはズレ(存在論的差異の同一)があり、このズレをラカンは想像的誤認と呼ぶ。
この誤認があるということの拒絶(自然的態度の唯一絶対化)が本体論を構成する。
話は簡単で、僕たちは個々の意識内における現象のうちで、ある特定の条件を満たしたものを客観的事実として確信構成している。つまり客体本体があって、その客体対象についてのあれこれを知覚しているのでなく、あれこれの知覚の総合とその連続的調和において客体対象がそこにあると確信する、その確信において客体対象(信憑本体)を意識内に構成するのだ。
この現象学的認識において本体論が解体さると、前述した全ての言語論的アポリアを完全に解消することができる。というのも本体との一致の客観的確かめの不可能性などという馬鹿げた発想そのものがナンセンスとして捨て去れるからだ。ない本体(妄想意味、妄想世界)と言語表象(または主観)との客観的な一致などという問題は本体論がつくりだす妄想でしかない。
ゆえに真偽命題の一致と不一致の論理回路そのものも意味の決定権の座からひきずりおろされる。
ともあれ本体についての信憑だけがあり、特定の知覚条件を満たしたものが客観と呼ばれる。
これが客観の構成の全容だが、このとき客観本体が絶対的にあってそれを僕らが知覚している、とし存在論的先後関係を顚倒、そのことで先験的なレベルを排除して誤認を拒絶すると本体論的独断論や本体論的懐疑主義が生じる。
なおデリダの形式論理主義は典型的な本体論をなし、この誤認を一切認めないようである。
したがってラカン派からは現象学はこういえる。
それは認識論的な欲望の誤認を引き受けるための欲望技術であると。
またヘーゲル風でいくなら、超越論的と経験的とで分離し、それが主体/実存/欲望のもとに弁証法的に統合される精神の運動が現代現象学といえるかもしれない。
なお言語の意味の同定についてウィトゲンシュタインは、モンブランの高さ、特定のゲーム概念についての説明、クラリネットの音の聞こえ方の説明、という数学的規定、概念的規定、感覚的規定の三つの意味の同定の謎を取り出すのだが欲望論ではこれらについて現象学的な回答がもたらされる。
とても面白い分析なのだが、この記事では割愛する。気になった人は読むと良し。
欲望論では、実存論的生物学からエロス的力動(快ー不快)をベースに、つまり限りなく0ベースで意味と価値の現象学的な発生原理を提出しており、ここが一つの読みどころとなっている。
ともあれ、ここでは言語の意味の同一性、つまり正しい意味の伝達可能性は、言語の意味が、客体化された言語記号(一般言語表象)に内在する、と考える限り、つまり形式論理的=本体論的に言語分析する限り原理的に解くことができないことを確認して終ろう。
かかる言語の問題が解けない限り永遠に世界は懐疑主義と独断論のシーソーゲームから逃れられない。
言語の意味の実相
言語の意味とは人間にとっての実存的意味(欲望相関的意味)の生成と切り離せない。
かかる人間の実存的意味とは、自らに到来的な情動、衝動の自己了解からなる目的性と企投における自己の存在可能の分節的生成を自覚し仕上げることといってよいだろう。
(※ここはハイデガーの予の構造、一般意味の意味連関の全体の了めの理解としての予持、かく一般対象ノエマへの実存的な適所性の配置への予めの理解として予視、一般対象ノエマの概念的把握としての予握があらゆる認識に先行して前提になっていること、了解の先行性の議論が関わる)
ようするに、そのつどの対象との関係(対象化)をなす情動や衝動からなる欲望相関的な用在性(道具、目的性、~のために)が意味の源泉であり、かかる実存的ないしは配慮的な企投的意味が一般化して、一般意味となる。
つまり一般言語表象(客体化された言語)それ自体に意味が内在しているのではない。一般意味は発生的には、人間欲望に基づく豊かな用在的意味の生成が痕跡として集積し諸用在性が一般化されてアーカイブされたものに過ぎない。
かかる一般意味を代表する一般言語表象を、いわばそのつどの企投的な道具として行使し、その行使において一般意味をつかって、そのつどの企投的意味を表現する、このような言語の意味の二重性こそが、言語の意味の本質構造をなす。
(※ハイデガーは本来的実存の形而上学に向かい、一般意味を頽落といって実定化し、企投的意味を頽落とされる一般意味体系から切断、かくして既存の一般意味系と異なる革命的で民族妄想的な実存の一般意味化に頽落する、これがハイデガー問題の本質で、このためにニーチェとの不毛な闘争を演じるが、このとき一般意味との関係論を構造技術するのがラカン)
このとき論理学的な前提は、現実言語における企投的意味を予め消去することで、一般意味が多様な使用シーンの痕跡として抱える意味の多義性を分散させてしまう。
まったくの茶番、ゼノンの時間のパラドックスと同型の茶番というより他ない。
(※後の議論に先んじて示すと実存論・目的論における気遣いー企投と一般との、つまり時間(移動主体)と空間(客体)との二分法そのものへの疑義を提出をすること、ここに現代思想の根っこがある。松本卓也の斜め論もこの文脈で読むと分かりやすい。松本の臨床感覚は鋭いと思う)
以上の捉え方が、フッサールの超越論的現象学の実存論的転回をなす現代現象学派の意味論の一部である。
(※全部解説しようとしたら大変な長さになるので割愛、詳しくは欲望論を参照)
さて欲望論ではラカンは本体論の解体と無縁とされる。しかし僕の理解ではそうではない。ラカンは認識論に向かわなかったので認識論的な本体論の解体は確かに達成していないが、一部、それと等根源的な仕事を、つまり認識本体論の解体を異なる位相へと転移して達成している部分がある。
それが強迫神経症における誤認の理論。
ラカンは主体は自らが自らを自己決定する自由意志において、自己主体が絶対的に先行しつつ自らの意志をコントロールしているという幻想/誤認を構成することを理論化。
言うまでもないが、いかなる意志も遡れば、あるいは遡るまでもなく、つどの意志はそれ自体で自生的であり、私が私の意志を決定し尽くすことはできない。
(※ランダムに二桁の数字を思い浮かべてみよう、このとき読者が思い浮かべたその数字を決定したのは読者ではありえないとすぐに確認できるだろう。このように想念を想念自身が規定し尽くすことは原理的にできない。ここでまず帰謬論的な無限後退の問題が生じるが、したがって自由意志の誤認もまた認識論の自然的態度の誤認と同じく本体論的な命題論理系に毒されている。この誤認をヘーゲルなら表象の思考と呼ぶだろう。)
つまり、僕らが自由意志と思っているものと実際の自由意志の条件とでは差異があり、人は誤認を形成しているとラカンは明確に指摘しえている。
このとき、かかる自由意志の誤認は、本体論における客観本体がまずあって、それを認識しているという認識論的誤認と相同的である。したがって現象学における後者の誤認の指摘とラカンにおける前者の誤認の指摘は哲学的に等価な部分がある。
あらゆる本体論を徹底解体したフッサール&ニーチェとラカンの指摘を完全に同じ功績ということは難しい、しかし、相当程度、両者の仕事は等価性も持つと考える。
次の項でそれについて論じてゆこう。
現象学の還元の意味
現象学の超越論的還元について。この還元が本体論解体の仕事において何をしているのかが分かると話が早い。
自然的態度(エポケーする前の普通の認識)において、僕たちは客観的対象(客体、目的語)とその客体に相対する自己(主語)がまず先にあって、そこから対象のもろもろの性質や情感を内面的に把握すると考える。
このとき客体と主体の側は原因で、内面に起こる対象客体についての諸々(行為的力動を含む)はその結果と理解される。
たとえばリンゴ本体が目の前にあるからこそ、赤くて丸くて美味しそうだ、と感じるということ。
現象学的還元では、この自然的態度における因果関係(先後関係)を反転して赤くて丸くて美味しそうなありありとした像が意識に連続的に到来しているからこそ、目の前にリンゴという客体があると確信する、と考える。
つまりたとえばフッサールなら、意識において一定の条件(射映、地平性、顕現性など)を満たす所与の知覚像を客体として確信構成すると考える。このことで、客体本体を解体して一切を内的意識における信憑へと還元。
まず客体本体があってそれを正しく認識できるかどうか、ということで懐疑主義と独断論の問題が起きるわけだけど、実際に僕たちが客観と呼ぶ物の客観であるための条件は、それの本体的確実性ではなく内的意識における一定の条件に依存している、というわけだ。
特定の意識内条件を満たしたときに客観本体への信憑が構成されて、それが客体だと間主観的確信が構成される。
なおこのようにいうと、間主観的確信の合意は確かめられない、相手の内面と自分の内面の一致は確認可能性を持っていない、ゆえに間主観性は成り立たないと思われるかもしれないが、それも本体論的誤謬だとすぐに分かる。
ある一定の内的条件を満たしたときに、他者との合意(一致)ができたと確信構成される。本体と一致することを合意といっているのではない。それは誤認を排除して自然的態度を絶対化してしまうことで起きるスケプシス主義的な自己意識の自由に過ぎない。
だから他者の感覚や思考内容といった本体との一致ではなく、自己の内的な確信条件が満たされたときに、その一致が確信構成される。繰り返すが自然的態度とその超越論的条件とではズレがある。僕たちの経験的認識は実際の条件と必ずズレている。
このズレをラカンや僕は誤認と呼ぶのだった。
なお、かかる認識的誤認(差異)を拒絶して本体との完全な一致以外を一致と認めないと言い張るのがデリダの根本思想で、これは典型的な形而上学的帰謬論に過ぎず哲学的に無効な思考。
デリダは自分で同一と差異を馬鹿げた論理学的二項対立に追い込んでいることに気づいていない。
さて、本題に入ろう。
ここで現象学の還元とは主体のエロス的力動がまずあって、客体とそれに対峙する自己主体とが、かかる力動において析出(対象化)される、と考える。
だから現象学では対象化を生じるエロス的力動は対象のエロス性と主体の内的衝動との二面性から把握される。
これはブランケンブルクなどの現象学的精神病理学で超越論的自我(欲望性)と経験的自我(対象化された自己、客体の同時的な相関者)との先後関係として、前者が後者に先行するものと記述されることにもいえる。
したがってこうなる。
まず発生的には、エロス的力動(衝動、欲望)としての述語的行為感覚があって、そのあとでその述語(欲望)に相関して道具的・用在的対象(道具的存在者)が構成され、かかる用在的ノエマ(そのつど欲望目的的に措定される対象)がその反復と言語化による関係企投的意味の一般意味化を介して、一般意味として構成され、後に欲望相関性から対象でありその意味が切断され(意味の発生的プロセスが忘却され)対象本体が錯覚される。
ポイントは視線変更によって客体本体が解体すること、それは目的語や主語に先行して述語行為(エロス的力動)がまずあるとすることで、
主語文法における述語(~である)に対する目的語(主語)の先行(SVOなどの語順)の先後関係(自然的態度)の反転をなす。
(※しかし後述するが、現象学では述語の主体化、単一化が前提されてしまい述語性に到達しない)
つまり主語文法こそが自然的態度の支配化、誤認の排除を構成している。
主語文法/コプラ文法は真偽命題論理の母体であり、唯物論的本体論の源泉に他ならない。というのも主語が人称をもって述語を人称変化させるということからも、古英語に主語が少なかった事実からも分かるように、主語と目的語の分離がまずあって述語行為が両者の間で生じるという主語文法は自然的態度の認識モデルと一致する。
このような主語教育を徹底して学校文法で日本語を主語言語として教える状態は本体論をすり込むことに等しい。現実に言語の使用感覚を現象学的に内省してみても僕はそう思う。
いわば存在論的差異の顚倒は主語言語にあり、その主語(受動態/能動態)の全面的な先行性こそが問題なのだ。
ここまでが分かるとラカンの自由意志についての誤認が本体論の解体であり現象学の還元と重なることが分かる。
ラカンは強迫神経症(西洋近代主体、主語主体)において、主語主体があらゆる述語行為に絶対的に先行する現実にはありえない幻想を持つことを指摘する。
この指摘は現実には述語行為が、それが単一であれ複数であれ主語に先行することを示す。
これは本体論の解体をなす実存論的現代現象学の還元の仕事にも連動する。そもそも主客分離の自然的態度の成立が自由意志をもつ主語主体の成立と相同的なのはいうまでもない。つまり主語主体において主語と目的語の分離が先構成され、二次的に両者のあいだに述語的行為関係が生じるという幻想モデルが主客分離の超越論的条件なのだ。
さらにこの点を踏まえるとラカンの欠如態としての欲望の洞察が極めて重要であることが分かるが、これについては後述する。
ラカン対ヘーゲル
以上が分かるとヘーゲルの限界も見えてくる。ヘーゲルは自己意識=欲望を提唱し、ここまではラカンとまったく同じなのだが、そこから欲望の本質を同一性、否定性、区別、矛盾、矛盾の廃棄(止揚)の弁証法的展開として読み解く。
このとき普遍→特殊→個別として、つまり即自的状態→そのつどの衝動を目的とするバラバラの行為的今の連続→かかる衝動的今の欲望における実存的統合(自己同一性)の発達モデルとして描き、ここに人間のメタ認知の発達段階を弁証法として読み解く。
ここでは、述語行為の複数性が未開の心性として一方的に価値下げされている。
このような認識は哲学的合理性も持っていない。それは英語などの特殊な言語(主語言語)以外の言語使用における自己関係意識を現象学的に内省してみればすぐに分かると思う。
つまり話が顚倒している。
英語を筆頭に主語言語が本体論を絶対化して、その超越論的条件を排除するような文法構成にあること、つまり英文法的自己関係(自己意識)が存在論的差異(欠如、企投的意味と一般意味との差異の同一)を一般意味や唯物論的客体の秩序において一元化し塞いでしまう(誤認の排除をする)。
この主語文法がもつ主語→述語の錯誤的語順を現象学は反転して崩しているのだった。
ようするに主語文法たる欲望の生成をベースとした近現代社会、およびその諸制度・諸空間においては、言うまでも無く本体論が絶対化してゆく。
なにせ、本体論を絶対化した知を根拠に諸制度も諸空間も構成されているわけだから。
この問題について、初めて哲学的に有効な仕方で思考しえたのがフーコーのプラチック分析だろう。
さて、ヘーゲルの最大の問題は、近代欲望における主語幻想の生成が不可避に誤認を生じて、しかもその誤認を排除し自然主義的態度を絶対化してしまうように作動するメカニズムについて一切記述できていない点。
対するラカンの欠如態としての欲望の記述は、相関主義(主体欲望相関、述語行為の単一主体化)という主体の論理を断ち切ることで可能となる象徴界プラチック(構造化された無意識)の言及にその価値があり、このことで、欲望そのものの実際行為のレベル(より根源的レベル)を記述しえている。
つまりラカンは欲求ー要求ー欲望(欲求不満)という実存論的生物学的視点を持ちつつ、それとは別に言語構造プラチックの側の作動を読み解くために形式論理をあえてつかっている。主体の相関主義から離れて言語構造のプラチックを記述する場合、現象学派の好む実存的範疇にあるワードは使えない。
(※ただしラカンが論理学記号や数式を使うことに僕は反対する。ラカンの数式は明らかにミスリードになっている。ラカンの記述する構造は数学言語に対してメタレベルでありその逆ではありえない)
したがって現象学派による欠如論としての欲望論への批判には誤解があると思う。
ラカンが欲望を欠如として描いているのではない。正しくは欲望自身が自らを一般意味の欠如として構成してしまう(一般意味化してしまう)メカニズムを記述する。だから欲望は当の欲望においてつねに欠如態なのだ。
そして欠如としてしか自身を対象化しえない欲望の限界を主張し、後期にケーレして享楽と欲動に向かう。これはフーコーが欲望を放棄して快楽へと向かったのと全く同じ理由によるが、象徴界から現実界へのかかるケーレ(パースペクティブ変更)そのものが、欲望から享楽へのデプラスマンに他ならない。
つまり欲望の非知性、あらゆる情動すなわち自己の目的を喚起する衝動の到来元についての非知性、つどのそれ(諸目的生成的衝動)が何のためどこからどうしてやってくるのかということ、つどの意味生成(原因)についての根源的原因(自己起源)にたいする絶対的非知性、
この非知性のために自らの根源的存在意味をそのつど探り求める欲望主体化という自己関係が、自ら(欲望=存在論的差異の同一化へ向かう力動)を一般意味(言語的意味体系)の欠如としてしか構成できないことで生じる誤認排除と根源的幻想の限界をこそラカンは記述する。
この限界についてフーコーではこれを社会科学域へと転移し、国家による全体化(一般意味、社会的主体)と個人化(企投的意味、心理学的主体)のダブルバインド(欠如構成的な矛盾的同一)によって成り立つ欲望主体は、そのダブルバインドゆえ崩壊を迎える、と考えていたのだろう。これがフーコーの統治性における、諸個人の政治テクノロジー(欲望のダブルバインド)からの自己テクノロジーの切り離しとしての系譜学的な古代ギリシャのパレーシアおよび自己への配慮(自己技術)の探求の意味。
(※この探求において権力から切り離された真理ー主体関係としての自己技術に権力関係がいかに絡むかという分析がなされフーコー三角形(知ー権力ー主体)の順序がケーレする)
ともあれ、ここで欠如とは意味されたもの(一般意味)における欲望の非知性として欲望の対象(欲望自身)が一般意味の審級において欠如構成され、それゆえにエロス力動的で行為的な審級にある欲望は自身を意味されたもの(一般意味)の欠如としてしか欲望しえない。
これが欲望プラチックによる本体論の実定化と欲望の死のメカニズムとなる。
つまり一般意味の欠如としてしか自己を欲望しえない欲望は、その必然として全てを一般意味に還元可能であるという客観本体論的妄想に取り憑かれる。欲望におけるこの限界をラカンは欠如論として記述した。
ここに現代人が客体本体論に固執する原理が記述されている。
またラカンにおいては、前述した自由意志の主語文法的な幻想(誤認)が欠如論を構成する自己関係として洞察されている。
以上から思うに、やはり近代欲望が自己関係(自他関係)の崩壊因子として致命的な全体主義的作動、いびつな権力関係を惹起すると考えるのも一つの道理ではなかろうか。
(※あまり欲望を否定すると短絡的な近代全否定に傾く懸念があり表現が難しい)
つねに意味されたものの側にたち、その全体性を欲望すること(ヘーゲル弁証法)、それゆえ自身の根拠(欲望行為)をネガ的に欠如としてしか構成しえぬ原罪的思考(ヘーゲルには現実界がない)、つど普遍化(意味化)する行為ではなく普遍化(意味化)されたものの側に欲望の対象を欠如構成する欲望が依拠するエピステーメー(知)の作動は、欲望自身の消滅に帰結すると考えるのは道理ではなかろうか。
ヘーゲルは、この不可能なダブルバインドとしての自己関係(近代欲望)だけを、意識→自己意識→理性→精神→宗教→絶対知の弁証法的発展モデルにおける自己意識(内面の成立、自他の分離)の唯一の様態として独断論的に規定し、しかもかかる規定そのものが述語行為の単一主体化という当の欲望の作動において生じ、それゆえに欲望のプラチック(実際行為、回帰的自壊作用)についての盲目を招いていると思う。
ここにヘーゲル哲学と現象学の限界(生命)があるように思う。
この観点からはハイデガーの後期の存在本体論化も、
ハイデガーがその最初期から主体と空間、時間と空間との二項対立において、その欲望のダブルバインドの作動に耐えきれなかったことによる、といいうる。
(※松本卓也の斜め論はこの点を直観しているように思う、松本では時間(移動主体)論=実存論=単一主体論への批判のトーンに満ちている)
現実にはヘーゲルの見立ては変で、たとえば日本語という知における自己関係においては言語的意味の外部の述語性の側に力点があるので自身を欠如としてのみ構成することはない。
そのうえで主客の分離に特徴される論理も日本語システムの内で問題なく理解することは可能。つまり欲望は日本語システムにおいては限局されたうえで成立しうる。
そのような可能な経路が存在する。
(※これは日本語の特権化ではない現代英語の特権化への批判である)
僕自身、言説がフーコーレベルに半分ほどデプラスマンされたことで近代欲望と異なる原理で存在する。といって主客分離やヘーゲル弁証法を理解できなくなるなどありえず、むしろその理解が深まった気がする。
また以上から、ラカンの女の式が意味する複数形の父の名の象徴界システムはこのような自己意識の成立のオルタナティブを記述しえていると思う。そして男から女へのラカンのケーレは、初期ラカンの段階に既にあり、それは言語場所の地平で欲望を記述しえたことに起因すると思う。
この点の理由については後々触れよう。
後述するが現象学でもショウペンハウアーでもヘーゲルでも述語を単一化=主体化する、もっといえば現象学では最初から述語は単一主体化されており、場所レベルをすっ飛ばしていきなり空間と時間が論じられる。
それゆえ、主体→対象の相関主義的因果記述(パースペクティズム)が強くなり、対象編制→主体性という方向の原理論が弱いと思う。
この後者の読みを僕は還元の還元とか視線変更の視線変更と呼ぶが、
このことで、つまり現象学が西洋近代の主語主体の論理の圏域から逃れられないことで、欲望はなぜ自然的態度を絶対化してしまうのか、についての原理論が排除される。またここがフーコーでは言説の排除と呼ばれる。
要点をまとめるとヘーゲルでは欲望に誤認があることまでは指摘しているが、その誤認がなぜ生じて、それがどのように展開しうるか、つまり誤認の超越論的条件については全く言及できていない。
ラカンではその条件メカニズムが分析され、実存論的欲望論と構造論的欲望との連動も把握される。
ただし、エロス論的記述は現象学派のが優れている。たとえば、ラカン派の視線触発φは、木村現象学でいうアンテフェストゥムのことだが、アンテフェストゥム論をもたない構造記述に終始するラカンの精神病論では、存在体制(三つのフェストゥム)と言語構造との連動機序がうまく捕まれていないと思う。
だから人間心理の把握では現象学とラカン構造主義の二つを照応させて洞察しないと使い物にならない。
ともあれ、ここでのロジックが分かってくると國分功一郎(ポストモダン系)や松本卓也(ラカン、ドゥルーズより)と竹田青嗣派とで、どれだけ根本思想が対立しているかがよく分かるだろう。
こういう異同が世間ではごっちゃなので、それを正したい思いもこの記事にはある。
ラカンの現実界の重要性
現象学には、標識的一瞥知覚における一般意味による情動への規制についての優れた分析がある。なお、これを最大の問題とし意味と情動との関係において情動を救済しようというところにポストモダン的な議論がある。
もっともポストモダニストは意味化=意味関係(意味と情動との関係)の原理論を欠いていると思われるが、この意味化=意味関係の機序を、意味から概念へと転移して言説域から規範化論として捉えたのがフーコーだろう。
(※意味という場合、実存因的・主体因的となるが、これを概念へと転移し言説因のレベルで論じるのがフーコーと思う)
さて、一般に現象学では、発生的には企投的意味は一般意味に先行するが、日常の知覚では、あらゆる対象は一般意味として企投的意味に先行し、それゆえに企投的意味を豊かに生じる、かくして人は客観世界と実存世界の関係する二重性を生きる、という。
たしかに、この洞察は揺るがしがたい。
しかし現象学では一瞥知覚の本質観取において、見間違いの例が示される。
たとえば何らかの物陰が一瞬、幽霊に見えて、その対象(幽霊)に恐怖する場合、物陰が一瞥でレッテル的に幽霊=対象意味として確信構成され、その対象ノエマを情動の基体としてかかる一般意味に支配された情動が付与される。
ここでは情動所与は知覚において二次的で、一般意味がそれを支配しているのが分かる。このようなレッテル的一瞥知覚のレッテル的意味の作動が現代思想では最大の問題と見なされる。
なお同じ一瞥知覚でもあるミュージックが一瞥(一聴)で同定される場合、このモデルは当てはまらず、情動同定の側が対象ノエマ(一般意味)を規定する。
(※幽霊の見間違いにおける意味同定を主語的同一性、音楽における意味同定を述語的同一性として、当ブログでは言及してきた)
また芸術体験においては一般意味の構成そのものが放棄されることも珍しくない。うっとりとその名も知らぬ美術品の造型に没入して豊かな情動所与に逗留する美の体験を想起すれば、これはよく分かるだろう。
(※ここでの現象学理論はフッサールのコギタチオーコギターツム(個的直観ー本質直観)のモデルの欠点を克服し、像的直観ー情動所与ー意味直観の三つを本質契機となす最新の現象学理論をベースとした。詳しくは欲望論を参照)
以上の基礎理論を踏まえ本題に入ろう。
ラカンの現実界がいかに重要な洞察かを現象学的に有効なやり方で示したい。そもそもラカンが現象学派から本体論と見なされる最大の根拠が僕の考えだと現実界=物自体という誤解によるからだ。
さて、僕たちは日常で嫌いな奴には何らかのレッテルを貼り付ける。子どもの頃を思い返せば一度くらいレッテルを貼り付けたことはあるはず。
というわけで、そんな誰にでもある体験から現実界の意味する物(S1)の重要性を示したい。
たとえば政治に熱心な人たちは小銭稼ぎインフルエンサーに煽られて、~がネトウヨだ!とかパヨクだ!とレッテル貼りし、その相手の意味を標識(レッテル)の一瞥によって固定する。
このときその相手(敵)が何か善さそうな行為をしているのを目撃したとしよう。
レッテルを貼っている場合、その行為は視覚像としては知覚されているが、認知=意味付けのレベルにおいては、無意味な行為として言語的意味体系(象徴界、意味されたものS2)から排除される。
こうしたことがあるのは誰もがかかる状況を想像してみれば同意するところだろう。
さて、実はラカンが現実界とか意味するもの(S1)と呼ぶのは、この意味付けを排除された知覚であり記憶表象であり対象のこと。
よく現実界をカントの物自体と混同する例があるがそれは典型的な間違いで物自体などラカンには存在しない。そもそもラカンは明示こそしていないが本体論ではない。というか本体論として読んだら、訳が分からなくなる。実際のところどうなのかはラカニアンではない僕には分からないが、僕には本体論としてラカンを読む必然性は一切ない。
次に、悪人としてレッテル貼りをした敵、これはクラスメイトでも仕事の同僚でもなんでもいいが、そいつが悪人という意味(レッテル)に反する雰囲気のある行為をしているのを何回も目撃したとしよう。
するとどうだろう。数々の意味付けから排除されたその行為の知覚記憶がうずき出すのを感じないだろうか?
そこでこう思う。
待てよ、奴はネトウヨとバカにしていたが、実はいい奴なんじゃないか?あの行為の意味はひょっとして人助けだったんじゃないか?と。
このとき意味化を免れた知覚記憶が、自身に対して正当な意味付けを促してくるように感じられるだろう。なにせ、その行為の知覚の内に行為者の善意を感じるわけだから、これはもうその知覚表象そのものを意味するもの(S1)と呼んでしまってよいだろう。
これが現実界の意味するものS1の意味である。
あるいはよりシンプルにアフォーダンス理論のギブソンによる知覚の抽出理論において言及される一瞥的知覚における同一性の直観的抽出において捨象される対象の諸要素が現実界を構成する。たんにそれは意味されたものの外部のこと、だから欲望といった行為性(非空間的時間)も、ときに現実界に属する。
というわけで欲望一般から切断され、それ自体としてある物自体と現実界とは全く関係が無い。
どうだろう。現象学派の人にとっても現実界は、十分に妥当な概念と呼べるのではなかろうか。
このとき意味化から排除されるメカニズムを特定することが、さまざまな認知的不協和、つまり近代制度における規範化の問題の克服に必須だと分かるだろう。
ラカンのそれは原理論であり、ただの批判論ではない。つねによりよき可能条件を開いてくれる。
現実界のそれを意味欠如として欠如構成(象徴界化、時間の空間化)せず、在る対象として現実界において構成すること、そのようなパースペクティブが欲望の限界を超えることに直結する。このことで欲する対象の存在論的審級が転移する。ゆえに、この現実界の洞察と現実界への重心移動そのものにラカンの達成がある。
周知の通りヘーゲルでは、その単一主体化の規制ゆえ、意味するもの=現実界のレベルが一切記述されない。ゆえにヘーゲルは意味されたもの(一般意味)だけを欲望して、その矛盾を埋め立て、自身の弁証法さえ静止するプラチックを作動しうる。
ところで、欲望論ではドゥルーズの差異の哲学が形而上学として批判的に検証されるが、確かにドゥルーズのそれは形而上学的に思う。したがって表象の思考(差異の本体化)といえるのだろう。
しかし、表象の思考は物語でもあって、その表象にはドゥルーズの現代社会に対するアクチュアリティ(実存的関係性)が仮託されているように思う。
重要なのは近代の擁護よりも、現実に近代の何がそれ(拒絶)を生じてゆくかの洞察にある気がする。
ひとつ確かなことは、現実に近現代の99%以上の人々は本体論を盲信し、いくら論理的に説明しても理解しないこと。大学の人文学者にすらまったく通じない、だから大学はレベルが低い。僕自身、その説得が不可能すぎて独断論の人には本体論の解体より、懐疑主義による説得を試みるようになってきている。
そのくらい現代人は本体を解体したくないらしい。
ともあれ、ここで言いたいのは、近現代の諸制度は明らかに本体論を前提して構成されている点。本体論を信じている人しかいない、メイヤスーですら本体論なのだから、そりゃ常識的に考えれば現実の近現代の諸制度は本体論を前提する。
本体論解体のための近代制度批判とフーコー
たとえば既に指摘したように学校文法では日本語を主語言語とし嘘の教育を徹底している。
主語文法で自己表現すれば、唯物的本体論になるのは当たり前。このように制度からして本体論を実定化するための仕組みが張り巡らされている。英語(主語言語)は中動態すらないわけで、受動と能動の分離が本体的な主客分離の世界像になるわけだから、言語使用と本体論とは切っても切れない。
より決定的な本体論的制度の例をあげよう。
たとえば精神医学におけるDSM。こういうとDSMを全否定するのかと勘違いされそうだがそうでなく、ここではDSMについて正しく理解せずそれを妄想的に万能化することへの批判をする。
DSMは行動主義心理学の精神医学化で、意味の本体論と全く変らない。分析哲学における意味を心に、言語表象を症状に置き換えると全く同じと分かるが、つまり症状を一義的に観測可能なそれ自体で存在する客体(一般言語表象)と見なし、その症状が病気本体を意味(指示)すると独断する。
このゆえに操作的診断とのそしりをうけるが、
かくしてあらゆる精神の病は症候群化(症状の組み合わせ、一般意味化)し、その臨床家のまなざしは、病気の全てを空間的客体(症状)へと還元し尽くす、つまり時間(症状変化の動因たる病気)の全てを空間化するに至る。
言語哲学にこれを移植すれば、
病気を固有名、その症状を確定記述と置き換えるとわかりやすい。するとDSMが固有名を確定記述の束に還元する真偽命題論理主義の言語学的暴走の医学的再来だと分かる。
なお、ここで心の病気は、症状の変遷についての根源的原因を意味し、その意味で時間の連続的同一性に属する。かかる時間をなす動因としての病気が空間化された症状へと悉皆に還元される。
これは分析哲学において、言語的意味の発生的原理が忘却され、現実言語(病気ー症状関係)における企投的意味(実存時間)が排除されて全てが一般意味へと還元され意味(心)のアポリアを招くのと同じ。
(※うろ覚えだが、たしかフーコーの臨床医学論では症状は病気を意味するもの、病気は意味されるもの、とされ統計によって症状還元された病において全ての患者が確率的な交換可能性におかれるディシプリンが指摘されていたはず。いずれにせよ本体論的知の作動が問題構成されていると考えてよい、なぜなら主語言説プラチック(客体本体論プラチック)をフーコーは一貫して問題構成してるから)
周知の通り精神医学の諸制度はこのDSMをしばしば神のように絶対化する。
近代をベースとする今日の現実にこうした本体論的知の諸制度・諸空間があることは、このようにDSMや学校文法の例を見れば明らかではなかろうか。本体論の解体をなす上で、こうした近代の問題を目こぼしするのは無理があると思う。
現象学派が、分析哲学のそれを、
意味の本質たる豊かな生成を排除し形式論理によって意味の生命力を去勢する態度だと指弾するなら、DSM信仰のそれも人間の生を人間自らが率先(欲望)して規範へと強引に去勢する規範化(規範関係=欲望)を生じると言わねばなるまい。
(※行動主義心理学では表情などの観測可能な行動が客体化され、その表情に喜怒哀楽などの感情が本体として対応させられる。このような分析は感情の多義性の問題を生じ、その手法の破綻を露呈。また唯物論的本体論では脳物質に心を還元するがこれも吊り橋効果を考えれば即座にその無効性が論証できる。コンテキストを外すと必ず心の多義性の問題が生じる。そもそも外的知覚と異なり、情動と脳科学物質との厳密な自然科学的因果関係を記述できる可能性は原理的に存在しない。これは情動それ自体を客観的に記述できる可能性がないため。このことは両者の厳密な科学的因果関係が不可知なのではない、そのような本体的因果関係はそもそも存在しない。ヒュームの段階でこのことは半分まで論証され、その論証を根拠に現代自然科学の定義の一つ反証可能性がポパーにより定められた。だからこれが分からない人はそもそも科学的思考ができない。ほとんどの精神科医からしていくら説明してもこの簡単な科学的事実を絶対に理解しない)
ようするに主語文法化=学校文法化=国家編制においてはアポステリオリな主語幻想がアプリオリ化を免れず、自然的態度の絶対化を生じ、客体本体論がその支配を完成させる。ここを実定化して社会はこういう全体系だから社会内の諸行為は必ず頽落するという演繹的=主語的=自然的態度的な因果関係(社会主語→規制された行為述語)をベースに、かかる社会実定化の理論域から社会批判をするとハイデガーの頽落論に陥る。
つまりただの批判理論となり現実を破壊して妄想化した理想に突き進むことになる。
この点、フーコーは批判理論ではない。いかなる本体論的制度にも本体論から抜け出す権力の抵抗点が無数にあることを、述語のポリフォニー化=言表の出来事化において見抜き、本体論的知を抜け出し異なる言説へとプラチックするための可能条件を記述する。それは批判するだけの理論ではまったくない。
現実社会を実定化・固定的全体化しないことで、つまり諸行為の結果として全体(言説)があるとみて諸行為の側を原因として視線変更することで、問題を生じる言説の規則制から、ことなる規則制へと転移するための可能条件を記述してゆく、その思考技術がフーコーの思考体系なのだ。
ヘーゲルでは正しいあり方を指摘できても、この現実のうちから、よりよきへと転じてゆく種別的力動を洞察することがほとんどできない。ところがフーコーを使うと種別的プラチックから無数の可能条件を抽出することができる。そのうち、この記事でその実例を紹介することになるだろう。当ブログは可能条件の記述をモットーとする。
現状批判をするだけでは意味がない。
ともあれ、最初に全体があるではなく多様な言表行為があって、その分散と総合の結果として制度や言説といったまとまりがある、とみなすところにフーコーの述語分析の魅力がある。これがフーコー流の視線変更。
この述語の解放が言説域を思考可能化する。
フーコー/山本哲士と現代現象学との異同
少々内容が重複するがこの記事の核心部分に迫ろう。
現象学は還元によって存在論的差異(一般対象ノエマと用在的ノエマとの意味の二重性の関係)を開き、一般意味の一元化により消去されつつある企投的意味を、発生的には先行させる。
他方、一瞥知覚を筆頭に日常の知覚では一般意味に先行されて豊かな企投意味がそこに投げ込まれる関係を提出するのだった。
ここでは、実存的企投が一般意味より根源的とされる。
これを言い換えれば、経験的自我(意味)より超越論的自我(情動、エロス)を先行させている。
このとき自己対象(経験的自我)とその相関者(一般対象)とに欲望・主体的力動(単一述語)を先行させている。
これは主語や目的語に対して述語を先行させるということ。
ただし、この考えは述語性思考ではない。現象学では述語行為は全て主体の目的、企投としての『私は~である(be動詞)』に還元されてしまう。
ここでは述語行為の主体化・モノフォニー化が生じている。つまりあらゆる遠近法の源泉点は常に、単一の主体の意志へと還元される。
(※これは近代西洋哲学の特徴でカントの統覚、ショウペンハウアーの諸表象に対する単一の意志という考察にも顕著だが、もっとも優れた指摘として僕の記憶によると、山本哲士が歴史的名著、哲学する日本で指摘するハイデガー論に、ドイツ語のザインには~であると~があるとの区別がなく全てを~であるに還元してしまうために世界内存在として社会=世界の一元化と実定化がベースとなり、場所不在の時間と空間との二分法になるという論旨のものがある。実は、このコンパクトで鋭いたった一つの指摘が本記事のコアセオリーをなす。なお重要なこととしてこの山本の卓越した論考は松本卓也の斜め論における垂直の時間論批判とシンクロする。そのためこの記事で山本/フーコーと竹田青嗣/フッサール&ニーチェと松本卓也をつなげて読解することができる)
現象学では対象のエロス性までは言及されるのだが、対象の側の意志面があまりふれられず、場所をすっ飛ばして、いきなりハイデガーでいう実存的な『現』つまり近い/遠い空間と企投/被投性時間の生成に向かってしまう。
このことで必然的に実存論が優位となり、現象学の意味と価値の分析は実存範疇の術語に還元されつくすのだと思う。
これは空間還元的論理主義に対する時間還元的現象学の構図にも見えるが、
既に確認したように欲望論では、知覚の抽出理論などを援用し、標識的一瞥知覚における一般意味による情動への規制の存在が明確に記述されるのだった。
発生的には生物の側のエロス的力動が全ての源泉として機能するのは疑えない。しかし、特定の一瞥知覚に典型されるように言語的意味体系の側がエロス的力動の指向性を規制し、欲望(自己の諸衝動の実存的一貫性)を構成することが軽視されている印象を受ける。
もし一般意味体系の側のかかる作動(情動規制)を論じるなら、実論論的語彙での記述は困難ではなかろうか。
ここにラカンが欲求ー要求ー欲望という実論論的生物学的な記述と欠如論的な形式論理の記述を重ねた理由があると思う。
つまりラカンが重点的に描くのは、言語体系の側がエロス的力動に対して作動する、方向付け、おもにその迂回路(社会的秩序=言語秩序を迂回したエロス的達成)の構成メカニズムの記述であり、そのために形式論理用語として欠如が言われているはず。
この言語構造の側のプラチックは生物主体からの力動として記述するわけにはいかない。
つまり現象学では、諸行為述語としての『~がある、ポリフォニー』の水準を排除して、諸述語のモノフォニー化(自己同定)をなしたために、生物主体の側からの世界と意味の生成機序に関心が向かう。その結果、理論場所(象徴界)がエロス的力動を主体化(欲望化)する超越論的自他関係域(理論場所)を見逃している。
というわけで、フーコーが近代哲学ではディスクールの現実性が排除されると行ったのは、このような述語の主体化にともなう言説プラチックの側の排除を示しているのだと思う。
ここに僕は三重の先後関係を提唱したい。
一つは経験的先後関係。これは対象的・経験的な過去、現在、未来における過去と未来の先後関係。木村敏のノエマ的自己に対応。
もう一つは現象学的な超越論的先後関係。これは根源的今(行為的今、生き生きした現在、欲望)が対象化した過去や未来よりも先行している次元。木村のノエシス的自己に対応。発生的な企投意味の一般意味への先行性。
そしてさらに、言説レベルの先後関係。これは一般意味体系の側がプラチック(エロス的力動を経路誘導する力)を発揮して、企投的行為に先行的に作動する水準。この最後の先後関係はエロス的力動なしには言語プラチックも発動しないという意味ではウロボリックに相互連動しているとも見なせる。
しかしこの言説プラチックをこそアプリオリのアプリオリとする。それは欲望・企投意味がどのように回帰作用し、また諸領域に作動してゆくかという実際行為(プラチック)の水準を解き明かすからだ。
これと連動して欲望論では目的や意志を規制している言説プラチックの原理論が弱い印象があり、またそのテキスト読解においても、欲望(動機、主体)をコンテキストのターミナルとしている節を感じる。
なおアプリオリのアプリオリは、当ブログの他記事でふれた規範化することの規範化としての知のディシプリン化と対応する。
ともあれ重要なのは現実には目的意志による行為であり目的意志そのものの作動は、主体が自認する目的と乖離して様々なプラチックを展開すること。
たとえば、投票という目的行為であれば、目的意志や欲望としては、よりふさわしい為政者の選出のために、という有意義連関的な自己了解として議員のリサーチから投票用紙の記述に至る一連の実践がなされる。しかし、現実の投票のプラチックでは、そんなどうでもいい目的は重要ではない。投票プラチックで肝要なのは、為政者の選任をなすにあたり個々の有権者が社会のあるべきを内省し、その思考プロセスを経て自身を社会的主体へとつど実現していること。
このように目的行為(動機)とそのプラチックには多くの場合、大きな乖離があり、従って目的意志をコンテキスト読解のターミナルとするわけにはいかない。それではその目的意志が実際に何をなしうるかを捉えることができない。
ようするに動機を構成する先験的な言説の規則制を読まないと動機のプラチックは出てこないと思う。
(※この記事でのフーコー読解の要点はほぼ山本哲士の本からの受け売り。まだ僕の理解が浅いのでどれだけ読解できているかは分からないが、以前よりはかなりクリアにフーコーを掴めている気がしなくもない)
ともあれ、繰り返すが、ラカンが構造記述で達成しているのは、なぜ現代人が誤認を拒絶して本体論を絶対化しようとするのか、についての新しい原理論で、
自然的態度と超越論的との誤認(差異)の特定(引き受け)を現象学としたら、フーコーやラカンがやっているのは、その誤認がどのようなメカニズムで構成されるのかということ、したがって、アプリオリ(誤認)のアプリオリ(先験的条件)の記述なのだ。
このアプリオリのアプリオリの洞察には述語行為を『~である(自己同定化)、モノフォニー化』から解放して『~がある』へとポリフォニー化する必要がある。あるいはこういってもいい、言説プラチックの洞察をなせば翻って述語行為の脱主体化、ポリフォニー化がプラチックされると。
いまここにこうして提出する言説の理論が、その理論に自らを投げ入れる主体の動機をポリフォニー化しうるプラチック水準が記述されている。
このような分析を現象学派は可能だろうか。
ともあれ、一言で現象学とフーコーの違いを示せば、現象学では原因は欲望相関性におかれ欲望/身体相関的に、フーコーであれば原因(真理)は言説に相関して見出される。
繰り返すが、ここで言説相関への着眼は、述語行為を主体から外すことで可能となっている。
最後にフーコーと山本哲士の哲学の対応を示そうと思う。と言ってもまだ僕がちゃんと理解できているわけではないので、かなりいい加減なものとして読んで欲しい。
まずフーコーは主語主体と社会の種別的言説の規則制(対象編制、言表行為編制、概念編制、戦略編制)を論じている。このことで欲望という目的意志のプラチック(実際行為)が捉えられる。
この仕事はフッサールが現象学的還元において達成した視線変更をさらに脱近代化して、述語行為を脱主体化し、~である、を~がある、へと述語のポリフォニー化をなすことで可能となった。
この意味でフーコーの理論は述語性理論による種別的な主語言説プラチック(学校、病院、非行、狂気など)の記述に特化している。
ここを突き詰めた山本哲学ではさらにこの仕事を発展させ、述語性を実現する述語言説(場所言説)の規則制(資本、非自己、非分離、述語)を分析して、述語性の思考技術により述語性の規則制や文法構造を記述して述語制へと進化。
纏めると、述語性による主語制プラチック分析のフーコーから述語制プラチック分析の山本へと発展という気がする。
つまり現象学的還元によって主語に先行する述語の優位が引き出され、本体論が解体される。しかし、ここで述語はアプリオリに単一主体化・モノフォニー化させられており、そのせいで言説プラチックが排除されてしまう。
次にこの問題をフーコーはディスクールの現実性の排除と呼び、述語を主体化から外して諸行為へと解放し、このことで言説を権力関係として洞察できるようになり、さらに誤認の成立とその排除としての自然的態度の絶対化のメカニズムを社会科学的に記述可能に。
かくして達成された主語制言説の諸プラチック分析を踏まえて山本哲士は、それに対抗しうる述語制としての場所言説の規則制分析を達成したのではないか、と思う。
ともあれ大事なのは、フーコーが述語を脱主体化しポリフォニー化することで言説プラチック域が新たな哲学的思考領野として開拓されたこと。
と、このように書くとヘーゲル的な単線的哲学史になってしまうのだが。
肝要なのは、真理(何かの問題の原因)を欲望に相関させるか知(言説)に相関させるかという違いだったが、
このとき知(言説)は欲望(主体)に先行して欲望を規定する環境因の類いではない。知は欲望主体がそこから析出する水準にある。
ここを木村敏のメタノエシスではなく、ラカン的な構造であり言説の次元として読む。だから僕は言語場所という言い方をしている。
なおポストモダニストは主体に先行する環境因を無限遡行させるダーウィニズム的な本体論的線形因果律を主張する傾向があるが、これはカントのアンチノミーが独断論として否定している典型的な帰謬論に過ぎない。あまりにレベルが低い。
フーコーのなすプラチック分析と脱主体化(出来事化)はこのようなふざけた帰謬論とは全く関係が無い。
事実、フーコーは自らの哲学が脱構築と呼ばれるのを嫌った。
よくネットではフーコー好きはデリダやドゥルーズも好きという勘違いが蔓延しているが、それはない。少なくとも僕は反デリダである。そもそもフーコーをポストモダン御三家などとほざくふざけた輩も多く大変に困る。あれと一緒にされてはフーコーが誤解されるだけだ。
なぜポリフォニー化が必要なのか
ここまでの説明をしても近代哲学派には、フーコーのそれが近代への偏屈な批判理論として受け取られるかもしれない。
そこでより具体的に、なぜ主体論・実存論だけでは不味いのかを示そうと思う。
たとえば昨今のネット言説を観ると「タトゥーを入れる人はバカ」といったレッテル貼り(偏見)論法が多い。
このとき日本でタトゥーを入れることで生じる不利益を指摘し、それを根拠にタトゥーを入れる人を合理的思考力の欠如した人だとする。この短絡的で複雑性に耐えれない人に特有の推論が大衆を中心に少なくない支持を集めているようだ。少しでも現代社会に違和感を持っている人なら、このような言説がここ10年くらい?で増えたことに気づくだろう。
さて、このレッテル貼り論法、演繹的思考、つまり権威主義的推論はどのような前提において成り立つだろうか?
いうまでもない、この下等な推論は、諸行為を悉く単一の主体へと還元する目的・欲望還元的思考において生じる。
何気ない行為や習慣(タトゥーを入れる行為など)、諸行為の全てに主語主体的目的・意味が前提されてゆく。このような「~がある(プラチック)」を「主語Sは~である(プラクシス)」へと還元する、すなわち諸述語を単一主体化する近代欲望的な主語規制が、レッテル貼り論法としての過剰な規範化(規範関係)をもたらす。
この事例を示すだけでも、近代哲学、すなわちヘーゲルが誇る欲望主体の論理ではいかに現代社会の諸問題にアプローチするにあたり限界があるかは明白ではなかろうか。
繰り返すが主語文法の実定性、規則制がなす権力関係として、かかる演繹論法的な規範化が生じ、これが決定的な問題を生じている。ここのところの原理論は主体と実存の現象学(超越論的還元)だけでは掴めないと思う。
当の本体論も主語編制の言説から生じているのだった。近代の達成はめざましいが、やはりそもそも近代編制にはその理念を含めて問題もある。これら一切を不問とし、本体論と近代思考との結託関係さえも否定するのなら、もはや近代の理念は神のそれになってしまうのではなかろうか。
近代の理念(設計意志)と理念プラチックとは別で、プラチック域が非常によくない作動を生じている、と僕は考えつつある。
ともあれ、この諸行為(プラチック)の単一主体化(プラクシス化)の問題を論じるには、最初から「である」と「がある」との区別を持たず、全ての述語を「である」と前提してしまう現象学やハイデガー存在論ではイマヒトツで、フーコーが開拓した述語性思考が効くと思う。
もちろん、ヘーゲルや現象学の思考によって、この問題にアプローチできないとは言わない。しかしヘーゲルを使ってこの問題に挑むと必ず近代欲望の弁証法の破綻が引き出され欲望がうまく作動しないことが問題構成されるだろう。
近代欲望を可能とするための弁証法、それを具体的に実現するための思考技術としての現象学というフレームが固定され、欲望そのもののプラチックの回帰的な原因性を排除してしまう。
このような問題構成しかとりえないところにどうしても近代哲学の限界(生命)を感じてしまう。そして、この限界こそが生命であり輝きとなる。
ともあれポストモダニストの近代批判と近代哲学派の近代擁護とで激しい哲学的対立があり、ゆえに意見が偏りやすい状況にあると感じる。近代哲学派がドゥルーズの近代への懐疑や怨嗟のようなものを表象の思考と一蹴してしまう点にこの傾向はよく出ている気がしなくもない。
もっとも一番の問題はかかる対立以上に、僕のような一般の人文学書の読者が、近代派とポストモダン系や現代思想系との異同をまったく把握せず、酷いと物語独断論教祖と竹田青嗣のテキストをごっちゃに読んでいる例まであること。
これはもう、本が全く読めてない。
最後に、この記事では現象学よりフーコーだとかそういうことを言いたいのではない。
現象学の普遍性構築の方法論はどう考えても有効で、つまり哲学は現象学(欲望)だけではうまくいかないかもしれないと示したいのだ。
超圧縮的要点まとめ
長くなったのでポイントだけ箇条書きにしたい。
①現象学的還元は述語と主語/目的語の先後関係を反転させる。このことで客体本体論が解体され、不毛な独断論VS懐疑主義の本体論言説を転移する経路を開く。少なくとも唯物論的本体論は客体本体があって述語関係が後から生じると考える主語幻想の産物であった。
②しかし、かかる還元では述語は全て「~である」に還元され単一主体化を前提される。しかも現象学はこのことに全く自覚がなく、この無自覚さは近代哲学全般に見いだせる。たとえばショウペンハウアーの『幻灯の比喩』など。
③この述語(プラチック)の単一主体化(プラクシス化)のために内面のタームに規制され、言説プラチック域が認識から排除される。つまり主体性述語 → 目的語(客体)/主語客体という実存論的還元では客体編制/理論場所 → 主体性のベクトル分析ができない。これをフーコーは言説の現実性の排除と呼んだ。
なお言説→主体性の先後関係における言説とは、主体に先立つ環境因ではなく超越論的な主体の条件ないしは、アプリオリのアプリオリとしての場所因を示すゆえ、くだらないポストモダンの原因無限後退とは全く次元を異とする。
※言説分析における作用を→で示すとちょっと複雑になるのであくまで簡易的イメージ
④フーコーはそこで現象学の実存論的還元/超越論的還元を転移して述語における「~がある」と「~である」との差異を見抜き、「~がある」へと述語還元する述語性理論を開拓、このことで近代西洋の辺境性を脱して世界思想へと到達、言説プラチックを哲学の俎上に乗せることに成功。
⑤この洞察により欲望が意味された普遍性(一般意味体系)に欲望の対象を欠如構成(欲望の一般意味化)することで、本体論の絶対化が避けられなくなると分かる。フーコーではこの問題は、キリスト教の告白に起源をもつ個別化と全体化をなす自己関係のダブルバインドとして描かれ、これが近代国家の問題とされる。
⑥このためにラカンは現実界の意味するものの側に力点を転移し、欲望から享楽・欲動へと向かう。これとまったく同じことをフーコーは社会科学域で達成し、欲望(告白)から快楽プラチックへと向かい系譜学的かつ考古学的探求に進む。
※これはラカンの分析家ディスクールとフーコーとの対応にも見いだせる
⑦そこで自己関係をヘーゲル弁証法(一元化する社会=国家の規制)から外れた場所域に転移する経路を開くのがおそらくは述語制を記述する山本哲学なんだと思う。
※まだ山本哲士の本は少ししか読めていないため、理解が浅くはっきりとは何も言えない
結論としては、
現象学の普遍性構築のロジックは有効である。多様な局面で合意形成を実践的・目的的になさねばならないシーンがあるため。
それゆえこの記事では現象学=欲望が全てではないのではないか?という問いを投げている。
これが欲望を限界付ける(問う)こと。欲望を欲望自身から自由にすること。
終わりに
書きながら考えをまとめている都合で無意味に冗長になってしまった。
しかし、竹田青嗣の名著、欲望論一巻のおかげで、近代哲学のみならず現代思想についてまで、その理解が一気に深まり、この記事が書けた。哲学書によくある意味不明瞭なポエムを廃した理路明瞭さも本書の魅力で、その分かりやすさに全振りした体系的スタイルは僕のような哲学について詳しくない人にとって救世主的な一冊!
この本を読む前まで、古代ギリシャ哲学など本当に聞きかじった断片的知識しかなく、ヒュームやフィヒテらについては名前しか知らなかったが、今では哲学史の全体の流れとしてそれらを理解できた気になっている。
ところで最近はおかしな大学学者やふざけた哲学尊師系のピエロが跋扈しネット上でデタラメな哲学擬きを流布する事件が多い。
大学人文学のレベルは極めて低く、もはや哲学を維持する能力すらないと見える。大学で哲学を学ぶのは時代遅れで自分で本を読んだ方が早いだろう。
某保守系の京都大学の思想哲学の団体がトークン詐欺に担がれる事件も起きた。師弟関係をごり押しして、おかしな哲学擬きを流布し、達人の潜在的擁護システムとして知られるカルト的構造を構築、これにより強力な収益体制を整えた京都大学には呆れて物も言えない。
Z世代がアタオカな京大教授(尊師)にスポイルされていると見える。
おかしな尊師教授が、師弟関係=ギブ&テイク関係に共同体一般の基礎付けを求めていた。国家保守の最悪の存在論的顚倒と言わねばならないが、これはこれで興味深くもある。
というのも、昨今人気の膨大な数に及ぶ異世界転生作品における定番の設定と、かかる尊師のロジックがソックリだからだ。
異世界転生では対等な近代的人間関係はほぼ描かれず、といって平成にあった少年漫画の師弟関係も描かれない。
あるのは奴隷との主奴関係のみで、主人公が主人として奴隷(仲間)を増やすという構成の作品が多い。これが京都大学の某保守系尊師サークルがいうギブ&テイク論と酷似。
異世界転生の主奴関係では絶対に互いを裏切らず、両者の信頼関係に齟齬のない理想的なご恩と奉公のつまりギブ&テイクの遵守だけがある。
某尊師は裏切りを語らず、ギブ&テイクの絶対的遵守の重要を誇張し、それに人間の自由までを取り出してみせる。
なるほど、この破滅的自他関係にイマドキのとりわけ知的に軟弱なタイプが籠絡されるのも無理はない。あまりにYouTube的自他関係。
もし、ゼロから思想哲学を学びたいなら、最初は竹田青嗣の入門書で近代哲学の基礎理論を体系的に学び、そこから山本哲士で現代思想や吉本、山本の理論を学ぶのが最短で、そのさい必須となるラカンについては松本卓也の人はみな妄想するを読めばよい。
これが一番楽で速いと確信している。
これでハードルが高いという人は河合隼雄から入って、ユング派の川嵜、河合俊雄、田中康裕や現象学の木村敏を読んでから先ほどのコースに進むとよい。河合隼雄は一般大衆でも読めることに心血を注いだので、このコースならどんなレベルの人でもトレースできるだろう。
僕はこのブログで読者が僕より少ない時間コストで僕程度以上のレベルに到達できるようにすることを目的の一つとしている。
つまりおかしな出し惜しみや潜在的擁護システムなる茶番はない。そもそも京都大学の某団体がやってる自分以下に大衆のレベルを制限する大学権威の尊師化ビジネスこそがこのブログの敵である。
あるいは公共だといって選挙特番に素人を招いては、政治ゴシップ談義をショーに、そのイベントをコマーシャルに使う某尊師系カルト団体、おぞましい。
ただのエンターテインメントで意味が無い。政治は政治家について語ることとはほとんど関係が無い。政治主体=政治家という原因構成(主語幻想)を絶対化するとき平和を脅かす思考の暴力が惹起される。
きゃつらは自分より高い実力の人による体系的な良書を読ませることを嫌うだろう。よく武術家の師匠が見込みのある弟子に対して、自分より強くなると困るからと、わざとノウハウを教えず遠回りさせ完全に無駄な修行をさせるのとまったく同じことが行われていると思う。
この類いの連中の手口は決まっていて、いきなり難解な古典の邦訳あたりをまったくの素人で人文学書を読んだことすらない人に読ませる。こうして挫折させて尊師の解説なしには何もできない、と刷り込み尊師の威光を印象づける。
あとは本当は複雑なのにデタラメな素人理解で無理矢理ねじ曲げて単純化し、分かったつもりにさせる詐欺的話芸も常套手段だ。やたらと自己評価がだけ高くプライドだけはプロ並、実力は学部生レベル。他人に厳しく自分に甘いダブスタが日常化した尊師系によくいるタイプ。
本は遅く読むのがよい。素人が基礎を鍛えるなら入門書を丸暗記するつもりで読むのが一番早い。
急がば回れ、遅く読んだ方が結局上達は早い。
某尊師が思考基盤をアップデートするための読書は一日100頁程度だと言っていたが、そんな速く読めるわけがない。ハードな本は一日10頁でもきつい。
さて、本はその欠如を読むもので意味されたものを整理するのではない。著者が何を問い(欠如)、なぜそのように記述するのかを読むこと。この意味では記述に矛盾(欠如)があればそれこそが著者の魂だと分かる。
矛盾があったなら、それを解消するために書く、それが著者の書く動機(魂)となる。矛盾(誤謬)は転移のための言説の抵抗点を構成する。
また書かれた内容の意味を分かる(トートロジーする)のと、なぜそのように書くのか(パースペクティブ)を分かるのとでは全く読解の質が異なる。重要なのは後者。
前者に特化した著書が多いが、これは意味されたもののトートロジーでしかない。まったく意味がない。そのくせ分かりやすいから何か学べた気にさせられる。
流石にそのタイプの著者をここで暴露するのは控えるが某売れてる大学学者の哲学講義本はその典型で、こんなものが売れる時点で終ってるなと思う。
なおラカンはこのタイプのトートロジー解説者のことを大学のディスクールとして定式化し批判している。
さらに大事なのは、著者の動機や意図から離れてその言説(理論)のプラチックを読むこと、これを本の内容(目的、意図)と照応させて、その差異を読み込むこと。
このように読むことが欲望の自滅的作動を免れる新たな自己関係=自他関係を構成する。
ここで本の内容と本の理論プラチックとの差異を言説的差異と呼んでもいいかもしれない。これは「~である」と「~がある」との差異と等根源的だ。
このとき、主体や遺伝子でも環境でもない、また存在論的は先験的地平でもない、異なる先験的水準にある新しい原因(問題)を洞察(構成)することが可能となる。
病むのは人間個体ではない、言説すなわち言語である。一般意味と企投意味との分離構成の諸様態を捉え、企投意味を脱主体化・脱目的化すること、あるいは主体の意味より言説の概念を読むこと。
ようするにこの意味の二重性の構成(差異化)のタイプ、存在論的差異の同一の種別性が問題になっている。
※存在論的差異とは僕の理解(僕の思う木村敏)では内在的差異、自己差異、同一的差異であり差異の同一、ないしは差異と同一の同一に属する
ここを中心に読み込むと近代哲学から現代思想までをすっきりまとめて理解可能となる。


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