※この記事は【果てしなきスカーレット】、竜とそばかすの姫、バケモノの子、未来のミライ、サマーウォーズ、ルックバック、カリギュラシリーズのネタバレを含みます!
うたまるです。
今回は緊急企画!
本当は推しの子の記事をしあげないといけないのだが、その前に以下の理由でこの記事を緊急でしあげました。
最近YouTubeで『果てしなきスカーレット』が酷評リンチされているので細田作品の批評動画を沢山観て、そのあと、Netflixで竜そばとミライとバケモノを観てから、映画館でスカーレットを観劇。
※普段、自分の分析が完成するまで他人の感想や評論は観ない、しかし今回は大量の批評を見てから作品を観劇したので他人のレビューの影響を受けている
あまりにもSNSで細田リンチ祭りになっているので駄作なのだろうと思いつつ、良いところがあれば、記事にして宣伝しようと思って観に行ったが、非常にレベルが高く感動した。
この映画は間違いなく偉業を成し遂げたと思う!
数字に弱い日本人の性分のためか果てスカへのYouTubeによる集団リンチが継続、もう公開終了間近。
この民度がディシプリン権力・クイズ権力の力によって日に日に強まっていると思う。
(※YouTubeでは果てスカへのリンチが先鋭化、拝金YouTuberのインプ稼ぎのネタにされ、逆に果てスカ擁護動画はコメ欄でも叩かれ再生数も伸びないが、noteでは擁護記事が多い。このことの意味を考えた方がよいと思う)
そこでこの記事では細田作品の中心主題を解き明かして作品の価値を明らかにしたい。
ネタバレ全開となるが、本作はネタバレされてもなお面白い作品と確信する。またなぜ酷評されているかも分析したい。
この記事を読めば果てしなきスカーレットに対する色眼鏡も外れることと思う。
もうすぐに公開終了になってしまうので、とにかく観に行こう!
批評とは何か(啓蒙とは何か、保守とは何か)
本題に入る前に批評について簡単にまとめる。作品批評とは何かの理解なしに細田作品の理解はありえないと思うからだ。
批評とは社会の自意識をなす内省=リフレクションの営み。少なくともヘーゲルのいう批評する良心とはそのように読解できる。この意味で批評とはまず自己批評でなければならない。
したがって批評は作品=行動する良心自身の自意識にある。これは自己否定における自己肯定の弁証法的自己関係、結合と分離の結合を示す。
(※自己関係とは自己認識における【自己を認識する自己】と【認識される自己】との関係、キルケゴールでいう関係(対象化された関係)に関係する(対象化する)、関係(認識主体)のこと)
これだと分かりにくいので簡単にいえば、作品はひとつには自明視された社会規範の矛盾やそこから排除された外部を描き、そのことで社会のあり方を内省させる機能を持ちうる。このとき批評は作品が示唆する問題提起を掬し、諸個人が社会のよりよきあり方を主体的に考えるための社会矛盾=欠如を開く。このことで諸個人は社会矛盾を根拠とし、自己の自由な主体性を社会的主体として実現する。つまり自身が主体的に公共について考え社会に積極的に参与する自由を獲得して大人となる、こうした機能を持つことがある。
小学生にも分かるようにいえば、もし社会規範や既存のイデオロギーが完璧に正しくなんの矛盾もないなら、諸個人は社会について主体的に考える余地がない。もはや社会規範の奴隷でしかなく、自己統治(自己関係)を旨とする民主主義など不可能となる。この現実世界に矛盾や理不尽があることで諸個人の自由と主体化、責任が実現されるが、その矛盾を作品を介して開くのが批評の職能の一つというわけだ。
(※ラカン精神分析とは実はかかる社会的・言語的主体の成立の条件メカニズムを言語構造の水準において自他関係=自己関係として記述しているに過ぎない。ここが分かるとラカンの話もある程度なら非常に簡単に掴める)
以上は極めて近代主義的・ヘーゲル的批評論をなすが、この場合も、批評とは作品においてあらねばならないと分かる。
つまり社会で自明視された既存の善悪規範、制度的秩序、価値判断といった物差し(尺度)を作品外の社会的常識から引っ張りだし、その杓子定規でもって作品を論じ(去勢し)てはならない。
もしそのようなことをすれば作品は、既存のイデオロギーや社会規範を追認するだけのプロパガンダとしてしか機能しないからだ。
にも関わらず、作品を要素分解してchatGPTがそうするように、諸要素のコンテキストを捨象ないしは一般化=規範化し、そのうえで各要素を既存の社会規範=模範解答とつき合わせて、形式論理的な真偽判断を実行し上から目線で採点する、かかる受験クイズの採点者(学校の先生)かのようなディシプリン化をなして全体主義を蔓延するネオナチ擬きの批評言説がYouTube上で跋扈している。
これに抵抗しなければ批評も社会科学の未来もない。ここにこの記事があるのはこういう理由のため。
さて、作品の膂力、その直接性を意味付けて規範体系(真理)を組み替えること、それは作品を解く批評理論を作品の側から引き出すということ。またそれが批評理論自身の自己批評=自己否定をなす。
かかる態度の尊重はヘーゲルでもフーコーでもさして変らないだろう。
ただ僕の理解では、反近代をなすフーコーにおいては、批評の否を欠如やネガという次元ではなく、より積極的に見出すという違いがあり、また全体主義的な知のディシプリン化の歴史条件(アプリオリ)を暴くという点でもヘーゲルとは異なる。僕はヘーゲルからフーコーへと批評の転移をなすことを構想するが、まずはヘーゲル水準の批評を示して腐った批評空間を批評、最終的には批評空間を批評場所(フーコー水準)へと転移したいと考えるが、
以上から、夢分析=批評という考えをこのブログでは採用する。
(※夢とは古代では日常から隔絶された彼岸、死者の国であり、古代人は夢を語らいその体験を共有することで日常世界の秩序を組み替えてきた。そのような夢の語らいの現代的形式が作品=幻想=夢を分析して語らう批評、この見方はユング派的)
もう少し踏み込めばヘーゲル弁証法においては、作品の具象性を払って、論理へと還元する、そのことで作品=イメージの具象性をも賦活する、というのが批評の生命をなす。たとえば世界で一番面白いスポーツは野球だという人とサッカーだという人がいたとする。このとき面白さをサッカーや野球といったイメージの具象性に求める場合、つまり真理をイマジネールな水準(ドクサ)に位置づける場合、サッカー好きと野球好きとはどっちが一番かで嫉妬競合関係をなして分断が生じてしまう。
(※現代社会の真理の体制はこのイマジネールな競合関係を基礎となし、かつ細田作品の命脈がこの真理体制の外部にある知を作動させる故に酷評が発生、それを無能の粋を結集した日欧の批評家が無能すぎて理解できないのが最大の問題と思う)
そこで生活体験が多様化してイメージの具象性が普遍性を構成しない近代、つまりイメージの具象性が、個人の主観に過ぎないと否定されるしかない近代において、その具象性は否定されねばならない。そこで作品のイメージ=具体的表現は批評の眼差しを介して論理・関係へと還元される。かくして物語は比喩として読み解かれる。これが近代に一般的な近代主体的自己関係=神経症的な作品批評=エピステーメーをなす。
※経験が多様化すると幼少期の思い出の味一つとっても人によりバラバラ、だから普遍性は具象性の背後にある関係水準へと存在論的審級を異にする
イメージとはもとより、私と対象との関係であり行為(関係)それ自身が自身を自己対象化した対象であるから、少なくとも近代においては、対象(存在者)と対象化行為(存在す)との存在論的差異(心理学的差異)を開かねば決してイメージは自身の具象性から自由になれない。だからイメージ(物語、映画、漫画など)の具象を否定すること、論理へと還元すること(批評すること)は同時にイメージをイメージの水準において自由にすること、解放することでもある。
このイメージと論理との運動、これは感情と論理とのヘーゲル水準での運動原理と見なしてもよいが、この近代欲望の可能条件をなす差異化の運動を担い諸個人を解放するプログラムがヘーゲル水準での【批評】と呼ばれるものの実態・プラチックである。
※このイメージと批評との弁証法的自己関係が現代ユング派の基礎理論になる
そういうわけで批評理論なるもの(近現代的内省、自己反省=自己関係)は主客が繋がっていた古代には存在せず、また各時代に応じて、その知=理論も全く異なる。
たとえば自身を振り返るための壁掛けの鏡やプライベートな個室が建築空間に誕生したのもルネッサンス期以降に過ぎず、他人の目線を気にして身だしなみを整えるようになったのも人類史においてはごく最近に過ぎない。だから建築構造も制度も共同体幻想も全ては自己関係(批評理論)と共関係にある。
(※社会という観念も16世紀に生じた統治と関連する。現代的な市民社会も、ちょうどハムレット=スカーレットの時代のヨーロッパの歴史知(戦争をベースとなす歴史理論による諸制度、諸法、諸領域行為の解読原理)を経て、近代に知=解読格子が転移して、国家が一元化したことによる。社会は決してスタティックな実体ではなく統治性の相関に過ぎない。近年の批評言説は社会・国家を実体化しており非常に危険、これは右も左もタレント学者すらも変らない)
なにを細田と関係ない能書きたれているのかと思われる読者もいるだろうが、安心して欲しい。細田作品は一貫してこの弁証法的自己関係を主題としているので、以上の批評論を理解することは何よりも細田作品を理解することに直結する。
ようするにスカーレットはこの自己批評の原理であり自己を振り返る眼差しとしての知=言葉をまったく別の水準へと転移して公的諸問題に現実にアプローチしうる知へ移行する表現構造を持っている。ここは物語の具体的内容や抽象的構造をいくら読み込んでも見えてこない、この点はフーコーのプラチック分析において、近代を超えた場所批評水準において読み解ける。
そもそも作品の意味は作品を語る批評の言葉自身を読まねば、まず論じることはできない。批評が批評自身に無自覚、無反省となる現代のエセ批評家ブームは、批評(内省)の死を意味し、それは作品の死と批評の他罰化に直結する。自らを振り返る眼差し=内省の言葉=言語化技術が自らに無頓着となって、作品を一方的に規定するというなら、もはや作品は現実に何の意味ももたらしはしない。
果てスカへのリンチ批評も内省なき批評言説の他罰化に他ならないだろう。
かかる死んだ批評は現状追認、既存の知への隷属でしかない、批評家は自身の硬直した振り返られることのない自身の知に盲目となって、批評家自身、自らをその知の奴隷と化し、そうやって作品の膂力と生命を刈り取ってゆくのだ。これを我々、人文知の探求者はポスト全体主義と呼ぶ。ようするにナチスと変らないと言っている。われわれを全体主義に駆り立てる者、それは決して為政者やアジテーターではない、その背後にあって我々の思考に巣くう、知=批評の言葉(思考基盤)そのものであり、言説こそが我々を真に全体主義へと駆り立てる。
映画など娯楽でこんなものは社会と関係がないと思っているならとんでもない勘違いで、総理大臣が誰かなんてことより遙かに根底的に映画は政治なるものを規定している。自己関係をなす眼差しとしての知、すなわち批評の言葉=作品=幻想が世界を変えると言っている。
また批評そのものが批評自身を扱わず内省しなくなったとは、たとえばYouTuberエセ批評家が偉そうに政治家や作家などの決して反撃することのできない手足を縛られた対象を的にかけて、汚い詭弁でボロクソにボコって、そのくせお仲間の批評家がどれだけ、デタラメで有害な批評論を垂れ流しても全て目こぼし、ダブスタも当たり前となったことを考えると分かりやすいだろう。あげくには自分で作品を序列化しておいて、てめぇの批評に関しては感想に序列はない、と言い出す始末。
こんなもの許容すべきではない。
こうしたデタラメな批評空間で、イキって作品を叩いたり、広告するのが批評家だと勘違いして、エセ批評家になろうとする若年層が増えているようだ。
おまけ
簡単にヘーゲル水準の批評の問題点をまとめれば、ヘーゲル弁証法の批評論はどうしても試験=クイズ的。試験とはディシプリンの一種で、つねに自身の答をスタティックな模範解答=真理へと完全一致させることを反復調教しスコアリングによって諸個人を個別化する。
このため、試験では模範解答からズレることで減点となる。つまり模範解答の外部は無意味かつ無価値、マイナスの点数としてしか意味づけられない。ヘーゲルでは、規範からの逸脱は満点へと至るための贄としてそれ自身は減点としてしか意味付けがなされない、ここにヘーゲル自己関係論の問題がある。
かかる負の意味付けが主体の従属化を惹起する弁証法プラチックを内在しうる。
これはヘーゲルが差異を目的行為=プラクシスのネガとしてしか記述しえないことによる弁証法プラチックの限界を示す。
このような意味されたもの(模範解答=普遍真理)の側に力点をおくロジックは、必然、差異を拒絶する欲望を惹起しうる。ヘーゲルには構造主義の視点が欠けているのだ。
そこでフーコーは減点された回答の側を積極的に価値付け、ポジに扱う。もはやここでは模範解答=規範からのズレを恐れる理由はない。意味されたもの(加点された回答)から意味するものへと、パノプティコンを外す視点変更をなして真理を運動させること。このようなもはや批とは言われえない差異の評論、弁証法そのものを弁証法して開ける新地平がある。この記事ではその地平を開くことになるだろう。
※おまけのおまけ:ブーランヴィリエ的な歴史主義を経てポリスから国家理性に抵抗する自由主義の統治が、統治性の内在的原理として政治経済学の構築とともに出現し、社会が生物学的に一元化、あらゆる政治闘争が人種間戦争から市民闘争へと還元されて弁証法的な全体性・普遍性を主題化するロジックが登場した
未来のミライの精神分析
世間では酷評のミライ、僕は絶賛。
まず本作の読解は竜とそばかすの姫の読解をなす上でも果てスカを語る上でも最重要となるから最初に解説したい。
未来のミライの梗概
建築士の父が立てたリッチで奇抜な家に、主人公の4歳児くんちゃん、その母と父、飼い犬のゆっこ、そして新生児の妹(未来、ミライ)が生まれる。
くんちゃんは妹が生まれて母が妹につきっきりとなったことで、赤ちゃん返りし、嫉妬から妹に嫌がらせを。
これに困り果てる両親。
父はフリーになったことで自宅勤務なので、子どもの世話は父がすることに。
しかし、父はミライちゃんにミルク一つまともに飲ませられず悪戦苦闘。その様に母は「何事にも最初はあるから」と父を励ます。
そんなおり、くんちゃんは家の中庭の木の力で犬のゆっこと話し、犬になって駆け回る。
次に中学生になった未来のミライがやってきて、家に飾ってあるひな人形の片付けをくんちゃんに以来する。ひな人形をしまい遅れると一日ごとに一年、婚期が遅れるという。
紆余曲折あり、ミライとゆっことくんちゃんが協力してミッションを完遂。
次に、くんちゃんは片付けができずに怒られるが、中庭で今度は母の幼少期にタイムスリップ、過去の母の前に現れ、幼少期の母と家を散らかしまくってメチャクチャにしながら遊びほける。
そこに祖母=母の母が帰宅し、幼少の母がこっぴどく叱られる声を外から聞くくんちゃん。
※心的外傷とは欠如であり、映像を欠如して声だけが聞こえるというトラウマ表現はファニーゲームを筆頭に映画的な心的外傷表現の典型的手法
くんちゃんは、父とともに広場に向かい自転車に乗る練習をするが挫折。
くんちゃんは、中庭で既に亡くなった母方の曾祖父(外祖父)が結婚する前にタイムスリップし「何事にも最初はある」と言われ、祖父の運転するバイクや馬に乗る。敗戦時に船が転覆して負った足の怪我=トラウマの話を聞く。そこでくんちゃんは曾祖父をお父さんと呼ぶ。
後のラストシーンでくんちゃんにお父さんと呼ばれたことで、曾祖父は曾祖母と結婚することになったと分かる。
この曾祖父との体験でくんちゃんは自転車に乗れるようになる。それを観て涙する父。ラストシーンで発覚するが父は自転車に長らく乗れなかったことがトラウマとなっている。
さらに未来の自分が家出をしようとしているところに遭遇するくんちゃん。未来の自分と口論した結果、電車に乗って東京に行く。
迷子のくんちゃんは家族の名前を聞かれるが答えられず、行き場所のない子どもの行き先である、ひとりぼっちの国に送られそうになる。
ひとりぼっちの国に向かう新幹線にミライちゃんが入りそうになり、ミライちゃんを救出するため、そして家族の一員としての居場所を獲得するため、「くんちゃんは未来ちゃんのお兄ちゃん!」と叫ぶ。これによって兄としての新たな家族的ステータスとして新生したくんちゃんは、未来のミライに救助される。
そして、母の猫のトラウマや父の自転車のトラウマ、曾祖父と曾祖母のなれそめなどを上空から観るくんちゃん。
無事にもとの家に戻り、両親とキャンプに向かう。
未来のミライとイニシエーション
本作は母の息子のくんちゃんが新たにミライちゃんのお兄ちゃんとなって、家族的ステータスを兄へと移行するためのイニシエーションをなす。
それと同時にミライの誕生で、母も父もゆっこも当のミライ自身も新たに社会的ステータスに移行するためのイニシエーションにある。
したがって家族の相互変容をなす物語なのだ。
さて、妹に母を取られたくんちゃんはここで母親の欠如・不在を体験し、その不在を受け入れることができず、母を独占したいと駄々をこねる。
このとき母の欲望を独り占めする妹(ミライ)を精神分析では鏡像と呼ぶ。つまり自己の理想像=母の欲望の対象が鏡像。鏡像を相手にすると人間は嫉妬競合関係となる。
※母の欲望の対象はファルスとも呼ぶ
そのため母からの愛の承認を奪い合うライバルの妹を嫌ってしまう。
(※後に解説するが竜とそばかすの姫と本作はこの構造が全く同じ)
こうして、くんちゃんは母の不在を拒絶することで家族とうまく付き合えず衝突。
だからミライを妹として認めることは、そのまま母の不在を引き受けることを示す。競合関係を克服して妹と仲良くなることは同時に母の欠如を引き受けること。
ここで一端、キャラクターの対応を確認しよう。
くんちゃん=建築士の父
鏡像=現在のミライちゃん
父性=母の祖父(外祖父、ひいじいじ)
くんちゃんの実父の設計士は本作では父親として一切機能しない。彼はむしろくんちゃんの分身であり、妻の息子。
だから建築士の父は妻に任された妹(娘)をうまく抱っこできない。これは妹をうまく引き受けられない、くんちゃんそのもの。
さらに小学生時代、自転車に乗れないのがトラウマだった父、くんちゃんが一人で自転車に乗れるようになったのを観て涙する父、これはもちろん自転車に乗れずにいるくんちゃんと重なる。
以上から、
くんちゃん=父親=母の息子という対応を細田監督は構成していると思う。
その証拠に、くんちゃんが父と呼ぶのは、母方の曾祖父であり、その精神的父から受け継ぐ言葉が、「何事にも最初はある」。
母は祖父の代から受け継ぐ<父の言葉=父の名>「何事にも最初はある」を物語冒頭に夫に与えており、この言葉に励まされて育児(ミライとの関係)を遂行する父と、曾祖父から同じ言葉を授かり、自転車に乗れるようになってミライちゃんの兄へと成長するくんちゃんとは完全にリンクしている。
不在の父となる外祖父が母子分離=母の欠如を基礎付ける承認の言葉=父の名をなすのだ。
したがって、生き場所のない子どもの向かうひとりぼっちの国とは、母の欠如を引き受けずその結果、言語的主体として誕生できないことの、つまり母が消え去らないことの心的外傷性の世界を表象する。社会的ステータスを持つ言語化された主体(兄)として誕生できない、家族の一員になれない、何者にもなれない、それがひとりぼっちの国なのだ。
※欠如としての現実界がひとりぼっちの国
精神分析では父の名、家系の言葉は分析によって出てくるとされる。この言葉がその都度の偶発性を必然として引き受けて意味付け自己を統合する根拠となる、とされる。
これは本作でミライのささいな偶然が積み重なって今の私たちを形成するという旨のセリフに対応し、本作の描く時間制とも重なる。
父の名について念のため補足すると、何事にも最初はある、という言葉によって欠如や躓きといった外傷的出来事が引き受けられるということ。この言葉のおかげで初めて妹の兄になることもできたし、自転車にも乗れた。したがってそのつどの欠如を承認する言葉が父の名。
さまざまな起源的シーンを反復(トラウマの反復)して、父の名に最初はあるという言葉を設定するセンスは優れている。まさに最初=起源を反復する作品なんだということの自己開示であろう。
心的外傷と最初の時間
重要なのは何事にも最初はあるという父の名が、本作のイニシエーティブな時間構成を形成している点。本作が描く過去や未来、そして現在は全て起源的な最初=心的外傷に通じる。本作は世代を超えた家系における最初・起源の継承と同一を捉えている。
だから、この点を見誤ってSFの類いと勘違いし、散文的・客観的・日常的時間意識から本作を読み込むと、カオスだとか支離滅裂だといったズレた感想となる。
※この問題に関しては果てスカの項で解説する
そもそも実存レベルでの自身のステータスの移行に際しては日常の客観時計的な時間=因果記述は馴染まない。現代ドラマ的な散文構成の時間制では記述できない。
少なくとも、時計の針が規則的に動くように、のっぺりといつの間にか連続的に子どもから大人になる人などおらず、いかなる民族でも近代人でもこの場合、イニシエーティブな非連続的変容のジャンプが試される。
古代、成人の儀式がある種、命がけであったのもそのため。形骸化したとはいえ卒業式などの特別の儀式もそういう意味の名残。
したがって私が同じ私でありつつ異なる存在へと変容する、こうした場合、イニシエーションはかならず生と死を象徴的に構成する。つまり一度死んで新たな存在として生まれ変わる。たとえばロードムービーの多くも、ホームから異世界・死者の国へと旅をしてそこで象徴的に死んで再び此岸のホームへと帰還し新たな存在として自己同一をなすイニシエーションの構造がベースとなっている。このようにエリアーデの定めるイニシエーションの原則、分離・過渡・統合の三段階で構成されている映画は多い。
※ただし、この定型構造からの外しがポストモダン社会の作品では定型化しつつある
だから自己存在の変容のジャンプには必ず誕生の起源的傷痕、心的外傷としての今の反復を要する。かつて心理的に世界に誕生したさいの自己の起源=トラウマを、変容を迫る現在のトラウマに重ねること、この起源的今における根源的過去との隠喩的な重なりが、自己を変容させつつ同時に昨日と同じ私として新たな私を矛盾的に自己同一する条件なのだ。
このような実存的時間、厳密には本作は実存という個人主体を超え出たレベルでの存在変容を、家系の言葉=父の名において描写すること。この精神分析的な偉業を達成している。
だから外祖父の心的外傷、足の怪我=敗戦のトラウマこそが結婚の理由をなしている。ここを足の怪我がコンプレックスで結婚できないでいたが、くんちゃんに励まされて結婚に至った、などと読むのは散文的誤読に他ならない。そうではなく本作の描く時間制からは、足の怪我(敗戦)という心的外傷のために結婚(新たに誕生、ステータスを父へと移行)した、ということを描いていると分かる。
このように作品が蔵する知=時間構成=種別的因果性を読み込み批評して、初めて本作の達成と意味が明瞭となる。批評とはかくして作品がなす構成=知に即して作品を読む=批評する理論を作品より取り出す技術であり、かかる技術なくして、作品は現実に影響することはできない。
なお自転車に乗るとは、母の欲望の対象=想像的ファルス=母の身体そのものであることを断念し母との分離・母の欠如を引き受けて父のように象徴的ファルスを持つもの、したがって自身で自身の身体を持ち、制御する心的主体として誕生することのメタファーと見なせる。
それが自転車(ファルス・身体)を自身で操作すること、馬を乗りこなしバイクを操る父のようになることである。
※馬についてはハンス少年の馬恐怖症の有名な症例があり映画的にも非常に意味があるが割愛する
念のため理屈を圧縮して補足しておくと、つまり私が私の主体となるには身体を精神がコントロールする必要があるが、このとき身体欲求と精神との間になんらの葛藤もなければ即自なんであって自己意識も何もあったものではない。私と私が一致しており自由意志も何もない。
そこで自由意志の主体となるには、自己身体からずれこみ、ある種の自己欠如をもつことになる。つねに身体関係で断念や葛藤を抱え完全には身体へと一致しない。このような自己欠如が母の欠如と連動しているということ。この欠如を基礎づけ自身を自由な言語の主体として承認するのが父の名=何事にも最初はある、なのだ。
(※補足すると何かを自分の意志で決断・選択したという実感には選ばなかった未来・可能性を断念するという自己欠如・葛藤を要する。でないと選択の余地がないので自分で選ぶ=迷うことができない)
このことは母が消え去らず、つねに授乳してくれて身体満足=無欠の状態にあったならどんな赤ちゃんも声ひとつあげる猶予はなく永遠に主体性を屹立することができないことに通じる。だから母の不在を引き受けることが自身を言語的な自由意志の主体として立ち上げる条件となる。
それがミライちゃんによる母の欠如を引き受けることで新たに兄として誕生する、くんちゃんのイニシエーション。
そしてその変容は家族全員、そればかりか過去の家族=死者=曾祖父の変容にまで連なる。これはぶっとんでいるのでなく前経験的な時間描写として極めて理論的に精緻なのである。
だから本作は理論的整合性がないのでなく、日常合理性とは異なるアプリオリな時間表現として緻密に理論構成されている。そこをアポステリオリなものとアプリオリなものとを混同するために酷評されているに過ぎない。
いうまでもなく母の幼き日にくんちゃんが出会い、散らかしまくって禁止を犯し、後、母がえらく叱られる外傷体験や猫の心的外傷体験が描かれるのも、未来のくんちゃんが家出だかで自分探しをしようとしていたりするのも、全てが起源的な心的外傷の今の反復をなすことに由来する。くんちゃんが部屋を散らかすことで母は当時自分が散らかして怒られた体験を息子のくんちゃんに重ねるわけで、極めて妥当な描写。家族全体のイニシエーションに際して起源的=外傷的なものが根源的今において重ねられるという論理的に当たり前のことが描写されている。
これのどこか意味不明だというのか、まったくYouTuber批評家はズレている。
あくまで本作は客体ではなく共同主体的な幻想を詩的文法において、したがって反復する起源的今=心的外傷において捉えるもので経験的な日常性の時間に対するアプリオリをなす。この散文と詩との差異を混同して合理的な設定のリアリティ云々を言い出すのは批評として成立しない。
つまり本作では細田作品に一貫する家族、母の欠如と父の問題が主題化され、母性優位で母子分離が困難な日本社会で、いかに母子分離をなす父性としての父の名を取り出すかが問われ、そこに外祖父が引き出されている。
もちろん、この構成はバケモノの子で母の死にあって落胆する主人公を父が承認しきれず、家族の外部に熊きちとして父親代理を要請するモデルのブラッシュアップ版とみてよい。
細田作品はバケモノの子、未来のミライ、竜そばと一貫して母の欠如とその欠如の引き受け、それに要される父性代理を主題としているのだ。
奇抜な家に隠された意味
未来のミライでは父が建築家であり、非常に変った豪邸が舞台、その中庭の木が此岸と彼岸を繋ぐ聖域となる。
じつはこのような建築構造は古代ギリシャのそれに酷似する。日常世界の散文的、換喩的、線形因果的な時間制は空間においては水平さに表象される。そのため異界(天)との連絡の切れた唯物論的・人間中心主義的な現代では水循環の理論も水平の水の動きを中心に記述する。
対する古代では天の神々の世界と地上の人間世界との上下の連絡が最優先で、水循環も天から水が落ちるという垂直軸をベースに記述。これと連動して古代ギリシャの家では中庭があり、その中庭は天の神々の異界へと垂直に連絡する聖域として設計されていた。また木は世界中の神話に世界樹として垂直方向に神々や異世界へと通じるものとして表象される。
そのため時計的な過去→未来と流れる日常的な時間制=因果性を超える本作のイニシエーティブな根源的今(心的外傷性の今)を反復する時間制はかかる古代ギリシャ建築に親和すると分かる。
太古的な時間制を空間化した場合に中庭のある本作のような建築場が生じる。実は奇抜な家のデザインも本作の起源的なものの反復する時間構成に鑑みて、深層心理学的に非常に重要な必然性を持っているのだ!
細田作品と日本の母性
実父は父として機能せず、父は妻の息子状態となり、それゆえ父の名を母方の祖父(外祖父)から引き出すのだった。
ここで強引に圧縮して日本社会と母性の問題について述べよう。詳しくは河合隼雄とか土居健郎の甘えの構造とかそのあたりの本を読んで欲しいが、超圧縮して述べると、
たとえば日本社会は学歴偏重の一様序列で東大権威主義が圧倒的、また近代主体を成立できた歴史がなく精神的に幼児的で精神面では一切近代化していないという評価がしばしばある。
だから、教育も母親が優位で日本の母は専業主婦狙い、社会進出意欲がなく、その帰結としてルックスと若さで女性同士がマウントをとる嫉妬競合関係が強い。
すると母の子どもはママ友マウント合戦での代理戦争のコマとして受験戦争に徴兵される。こうして、偏差値などの単一の価値基準だけが絶対化していちいち競合的な人だらけになる。男も女も幼児的で嫉妬競合するタイプが多くなる。
男はもともと職業の多様性があって、一様序列的になりにくい。野球選手とサッカー選手が競合しないように。
対する日本の女性はルックスと若さしか価値がない傾向が強く、ゆえに競合して上下関係しか欲望構成しなくなる。この母の欲望に支配されて嫉妬競合的な日本人がある。
母子分離がおきないためミライちゃんと競合関係になるくんちゃんみたく、ずっと競合関係しか構成できない。この心性が非定型発達化した現代日本人の最大特徴をなす。
自分がなく他者との分離が形成できないので、権威的他者に迎合したり、自分の頭で考える知性がなかったりで空気が支配的となるのもそのため。
この社会的問題と家族構造との連動を洞察してアプローチするのが細田作品の特徴と言える。
だから、くんちゃんがミライちゃんを妹として受け入れる話は日本人が一億総赤ちゃん人間から卒業するイニシエーションという意味も読み取ることができる。
では外祖父から父性を取り出すとはどういうことか。これは、河合隼雄を参照すると面白い。河合の論によると西洋が父と子と聖霊の三位一体を心理的構造とすれば日本人は母と子と外祖父(母方の祖父)の三者構造を心的構造とするという。
たとえば古事記でもアマテラスにはたかみむすびのかみという父性的な神がペアとなる。だから天皇(ニニギ)がいて国母(アマテラス)はあっても国父という概念がないが、代わって外祖父(母方の祖父)が日本文化のなかで強く存在している。そこで、この外祖父から近代化に耐える父の名のオルタナティブをひきだしたと読解する余地がある。
※イザナキはいても国父とは呼ばれない
周知の通り細田作品は高畑勲的なアニメーション表現を継承している側面があり、日本的なところがある。
※高畑勲のアニメ論については当ブログの他記事で解説している
※本当はこの観点からオリジナルな考察を展開せねば記事にする価値が非常に危ういが時間が無いので断念し一般論を雑に要約しておいた
竜とそばかすの姫
未来のミライをベースに竜とそばかすの姫を読解してゆこう。二つの作品で基礎構造が同じだとすぐに分かる。
竜とそばかすの姫の梗概
かなり強引に短くまとめる。
幼少期に母が余所の少女をたすけるため川に飛び込み帰らぬ人に。
そのことで母へのわだかまりを持つ主人公の鈴。鈴は自身の容姿や性格にコンプレックスがあり、ルカという同級生に自身の理想を投影する。
そんな鈴は同級生の助けをかりてUと言われるメタバース的なネット空間で生まれ代わり、ルカの外見をトレースしたベルというアバターを使って歌姫になる。母への心的外傷から歌うことができなくなっていたが、ベルの姿のときだけは歌うことができた。
これにより歌がヒットしてベルは有名人に。
シノブというモテる同級生と幼なじみの鈴は、シノブと付き合うにふさわしいのはルカだと思い込む。
しかしルカはカミシンという別の同級生が好きだと発覚する。
Uで竜というアバターがジャスティンというネット自警団的な人のグループからリンチの的にかけられアンベイルによりIDが晒されそうになる。
そんな竜も鈴と同じく母の喪失を嘆くものでシングルファザーに育てられている。
竜とベルは美女と野獣のような交流をなす。
紆余曲折あり竜は父からDVを受ける子どもだと発覚。この見ず知らずの子どもを守るため、かつて母が川に飛び込み子どもを救おうとしたように、鈴も雨のなか一人で子どもを救出しに向かう。
こうして自分を置いていなくなった母のその不在を引き受け、そのことで理想の欠如を現実に引き受けて、自らの理想を現実に生きることが可能となる。
これにより母代わりにあったシノブは母を演じる必要がなくなり、鈴と交際可能となり、交際する。
竜とそばかすの姫と未来のミライのアナロジー
鈴をおいて余所の幼女を助けるべく川に飛び込み、鈴のもとから消え去った母。
これはもちろん、ミライちゃんの世話に夢中でくんちゃんの前から消え去った母に対応する。
したがって、川の子は母の欲望(救助)の対象であり、鏡像だと分かる。
以下に対応表を示す。
| そばかす | 未来の | |
| 母の子 | 鈴(月の裏) | くんちゃん 父 |
| 欠如否定者 | 鈴 ジャスティン DV父 | くんちゃん |
| 母 | 母 しのぶ | 母 |
| 鏡像・理想 | ルカ(太陽) ベル 川の子 完璧なルール ジャスティン | ミライ |
| 父の名 承認す父 | 父? しのぶ? | 母の祖父 (外祖父) |
竜とそばかすの姫において、母の不在を基礎付けて子を承認する父が存在するのかは非常に難しい。形式的には鈴の父がラストに賢明に子を助けようとする娘を承認するシーンがあるがどうだろう?
細田作品において実父は父の名としてまったく機能しないという共通法則があり、本作の父もどうにも微妙。そもそも父として機能していたら母の不在は最初から乗り越えられているわけだから、物語にならない。
フロイトの精神分析理論は、神=父の死をなす近代に父の死において父を蘇らせるバックラッシュ論だと論じられるのが一般的だが、土居健郎や河合隼雄の頃から先進国、とりわけ日本では父性の不在が問題視されてきた。そういう文脈にあって、今日的な父不在の母性的欲望の問題として現代社会のアクチュアリティを浮き彫りとするのが細田作品の一つのベーシックな読み方。
バケモノの子でも母の不在が冒頭にあって、さらに本来であればその不在を承認するはずの父親ごと消滅。そのため主人公が異世界にて熊のバケモノを父親代わりに成長する話となる。バケモノの子も父性なき日本で、いかに父性代理を構成するか、あたらしい家族観のあり方を探る試行錯誤の一つであろう。
しばしばある細田は保守的な価値観を押しつけるという批判に対して言えるのは、必ずしもそうでなく、古きものに革新の手がかりを探る、細田流考古学がなされている、と言いたい。
徹底して母の強さと父の消失が描かれ、この構造に現代日本社会の歪みと解決の双方を洞察する鋭さが細田作品の一つの強み。
念のため表の補足をすると、ジャスティンは正義・秩序にとらわれてその秩序を犯す竜を的にかけアンベイルしようと目論む。
竜を追い詰める秩序の化身とかした暴力的父性を帯びるジャスティン、彼はそのまま現実で家族のルールを守れ!とキレ散らかして竜の弟(息子)にDVをふるう父そのもの。
ゆえにDV父もジャスティンも、ルールという無欠の理想を絶対化して現実に欠如を引き受けないもの、無欠のルールと一体化して自身の欠如を引き受けず、内省のベクトルを反転して他罰化する者に他ならない。
これは欠如なき母の言葉=ファルスと一体化した存在であり、父の名による分離を構成しないために超自我と一体化した倒錯的主体といえる。
※精神分析では攻撃者への同一化という
だから競合関係にあって母子分離を引き受けないくんちゃんや鈴、竜、ジャスティンやDVパパは同じ欠如を引き受けない存在。ある種の分身。
言い換えれば、ここで母の欠如を拒絶する竜とジャスティン=DVパパは欠如を拒絶する等根源性を持つ。だから竜の救済はDV父の救済=死をも含意しうる。これを制度的司法的な責任論から論じるのはあまりにナンセンス。
鈴は自身の容姿が完璧でないことにコンプレックスがあり、つまり自身の現実と理想との乖離から現実における理想・鏡像の欠如を引き受けることができず、そのためにルックスがよく性格も太陽に喩えられるルカに自身の理想を投影する。
それゆえU(理想)の世界ではベル(鈴)の見た目がルカベースとなる。現実の自己と理想の自己との乖離、理想的自己と現実との不一致が引き受けられず完全に理想と一致することしか受け付けない自己愛。この欠如の否認(自己愛)のために自己肯定感を喪失し、ルカへ愛他的譲渡をなし同性愛的感情を構成。ゆえに自分の好きなシノブと付き合うのはルカと思い込んでいた。
それゆえルカがカミシンが好きだと分かるとルカへ投影されていた理想像が自身に引き戻されていく。どこにも完璧な理想など現実にはないことが発覚して現実における理想の欠如であり、理想における欠如(現実の自己)が引き受けられる。ラストにしのぶと交際可能になるのもこのため。
シノブが母親役を演じなくてよくなることは、鈴が母親の不在を引き受けたということでもある。
人間の理想や規範との自己関係は母の欲望を介した鏡像との関係、母子関係としての自他関係に連動している。それゆえネットリンチの問題と母の欠如の問題は理論的にリンクする。その対応が上記の表の意味。
※竜そばは、すずめの戸締まりと似ている、すずめは当ブログで記事にしている
最終的に鈴は自身の欠如を引き受けて、欠如した理想を自身として、現実の自己と理想の自己を弁証法的な自己関係として連絡可能となる。ここでは母の欠如を引き受けることで理想と現実の自己とに差異があることが引き受けられて、かかる差異を差異において同一する自己関係が構成される。このことで乖離していた現実の鈴と理想のベルとが弁証法的自己同一の関係に移行する。かかる移行が母子分離であり母の欠如の自己承認として描画される。
したがって、川での母の喪失という心的外傷体験のイニシエーティブな反復を意味する、鈴の雨水の中でのDV被害者の救助、自身が母となることによるトラウマの再演が、顔の傷=欠如を介して現実の自身と鏡像=理想とを一致してゆく。
※DVパパの攻撃で鈴は顔に傷を負い、その傷の引き受けによって現実の鈴が鏡像のベルのような顔になる
なお、このような自己関係における差異=欠如における結合の主題はヘーゲル弁証法をベースとする現代ユング派の後期ユング論(錬金術論)、結合と分離の結合に相当する。
繰り返すが、このような理想と現実の自己をめぐる弁証法的な自己関係の成立が母の欠如を構成する近代主体=神経症水準をなす。
ちなみに現代思想系だと結合より差異を中心化する傾向が強い。結合ベース(弁証法)か差異ベースかで作家が参照ている理論の性質が分かる。
(※鈴の顔の傷がベルの顔の化粧に重なるという指摘が、YouTuberのおまけの夜によって指摘されている、この点、おまけの夜の解説を参考した。普段は他人の考察は一切参照しないが今回は最初に細田評論動画を大量に観てから作品を観たので例外、ここは考察をかぶせないと深層心理学的な自己関係論としての解説が成立しなくなるのでやむなく参照、おまけの夜がそれだけ鋭かったということ)
また未来のミライではくんちゃんが鏡像のミライに対して嫉妬競合関係にあったが、鈴は鏡像のルカに対して愛他的譲渡=同性愛感情を構成する。競合関係ではなく自分はふさわしくないと考え、相手に欠如を埋める完璧な理想を投影することを愛他的譲渡という。両者はともに母の欠如を引き受けぬ状態にあって本質的に非常に近い。ともに母の欠如を完全に埋め立てる完璧な鏡像=理想しか認めないのだ。
母の欠如を引き受けぬことが、自己と理想=象徴との関係仕方を規定する水準が緻密に描かれている。未来のミライにもいえるが、サマーウォーズより構造水準での脚本レベルは遙かに高い。
理想や規範を巡る母の欠如の否認に自己肯定感やネットリンチ正義マンの問題の本質構造を洞察して体系的に脚本に落とし込んでいるのが分かる。非常に計算された緻密な脚本なのは疑えない。
なおルカに綺麗なコップを渡し、自身は欠けたコップを使うシーンも完璧な理想と欠如した現実の自分という乖離した自己関係をよく示す。
まとめるとミライでも竜そばでも母の欠如があってそれをいかに引き受けるかが主題化され、そのことが鏡像との自己関係のダイナミズムを中心に描かれている。いずれも母性中心による社会問題の提出と同じ母性中心によるそれ自身の解決という弁証法的な解決ベクトルを構成するのが特徴。それゆえ形式論理や日常論理性とは異なる時間制や象徴性を構成する作品だと分かる。
つまり竜そばでいえば、バタイユ的なベクトルで母性的・日本的な共通感覚的祝祭性=歌によって母子分離の変容が表現され、ミライでは外祖父という母性構造から父の名が取り出されている。
こうした作品表現のローカルな相関体系が制度論的、司法論的な善悪や責任規定の外部にあることはいうまでもない。かかるアプリオリなコンステレーションを描くことこそが芸術の一つの職能なのだ。
それゆえ本作に対して既存の社会道徳や制度の善悪規範をおしつけて学校の先生かのように批評するYouTuber大島育宙氏のタイプの評論をこそ僕は批評したい。大島氏の批評は僕にとっては、いかにも先生のごますりをしてきた受験エリートに特有の不愉快さがあり、それこそジャスティン的だと思う。彼の少なくとも僕にとってはおしつけがましい正義感による批評そのものがネットリンチを逆生産するような知を作動する側面があると僕には思える。
たとえば臨床論文の臨床例にはストーカー被害にあいやすい女性が心理療法をうけるとストーカーされやすい体質そのものが消失してストーカー事件が解決するといったものもある。こうした布置をベースとする因果制は、刑法的・社会制度的な責任論とは位相が異なる。
このような非日常的・アプリオリの関係水準を描くのが物語の基礎的な機能であり、本作のDVへのアプローチはまさにこの水準を描く。一般化された客体的な解決手法を描いているのでなく、固有性=関係性の次元としての解決=問題を象徴的に描いているに過ぎない。
こうした心的描写に対して、それをDVへの一般化された解決描写であると誤読し、現実の制度論や法的責任論の観点からごちゃごちゃいうのは物語比喩と現実との区別の付かない批評家の無能さに過ぎないと考える。一般人ならともかく専業のプロの批評家に限ってこうした区別がついていないと見える。
つまり批評自身を批評する水準の論理を細田作品は開いている。だから批評への批評が作品の言葉としてここに引き出されている。
(※そいうわけで当ブログは方針を変えたので、批評家に関しては忌憚なく批評させてもらう。一方的に作家を集団で偉そうに批評リンチして自分は批評されないというのはありえない、そんなことは許さん!)
細田作品の特徴とバタイユ
二つの作品を精神分析で読解して現代日本の問題と細田の母の主題との連動が掴めたと思う。なのでここでは、まだ紹介できていない細田作品の特徴を示す。
細田作品といえばサマーウォーズや竜とそばかすの姫などが分かりやすいが、物語の冒頭で共同体の摩擦を描く。家族同士や現実、さらにはネット空間に至るまで、いかんともしがたい人間関係の他者性(分かりあえなさ)であり軋轢をまず最初に嫌というほど描き出すわけだ。これは共同体の煩わしさそのもの。
それが後半に至ると、祝祭的ムードを中心に非日常的、デュオニュソス的にその他者性、あるいは自己性というものが解体してゆく。まさに共同体が自我解体的な母性的原初へと回帰して全ての境界が消失する、その根源的生=死が表現される。
じつはこのような日常の個別性を起点にそこから彼岸の根源性へと回帰することの重要性を説く哲学者にバタイユがいる。バタイユは労働に近代の特徴を見出し、この労働が禁止=タブーによって成立することをとき、かかるタブーを破って根源的な領域へと向かうことで翻って、日常性がいきてくることをとく。
※禁止を中心に観るのはユダヤ・フロイト的であり、ラカン/フーコーは父の承認/権力の肯定を中心とみる
たとえばお祭りは、秩序的で労働的な時間体系をなす予定可能化、計画化、生の労働時間化を可能とするカレンダーの日付に、そうした労働秩序・時間秩序の根拠にその外部にある祝祭的彼岸(秩序解体性・秩序の欠如)を基礎付ける儀式といえる。だから祭り・神事には無礼講もある。
あるいは昼間の世界で禁止された性関係が夜の一時にのみ解放される(享楽のファルスへの局在化の時間面)。そういうあり方、禁止を構成して秩序をなしつつ、その禁止の彼岸をこそ労働日常的な秩序の根拠・幻想となす生が示される。
これは禁止以前の時代へと戻れというのではない。そうではなく高次元での回帰が重要なのだ。たとえば古代の儀式的生け贄では実際に人が亡くなっていたが、そのような直接性が禁止されて形式的で象徴的な儀式となる。あるいは舞台での演技という形で幻想化される。
※現実的なことと幻想水準とが差異化してゆく、この差異化の展開が精神の歴史的運動とされる
かくして禁止によって生じる亡きものを幻想として構成し、そこに欲望が生じる。この幻想化の構成が知や共同体における自己関係=自他関係の構成に連動している。だから幻想構造を論じることは自分探しの旅だとかの実存に始まり、物語構造、夢構造、社会制度、近代学問編制、権力関係、医学化などあらゆるあり方に連動してくる。批評の言葉も作品もそのあり方、どう語るかが制度や権力関係、統治性と密接不可分にあったりするのだが、
ともあれ細田作品は自他の分離した摩擦ある個人の集まりとして共同体を描き、その今日的な共同体の煩わしさをいかに克服して、持続可能な共同体をなすかが問題提起されえていると見なす余地があるだろう。
そこでの手法は、バタイユ的な母なる始原への回帰、彼岸の幻想への回帰を経て人々が再び日常へと帰還するもので、いわばこの現実世界それ自身のイニシエートが描かれているとも読める。
かかる描写の根源に日本的であり細田的でもある母性性を取り出すことができる。言葉によって人々が分かたれる以前、言語以前の根源的同一性への回帰であり、歌などの直接性や日常解体的な危機に生じる自他非分離の一体感。こうした母子の日本的・アニミズム的一体性の表現系として、バタイユ的な日常分離→祝祭的一体化という物語の進行がなされているのではないか。
※たとえば靖国神社の合祀も日常での諸個人の個別性を解体して自他一体の根源的今の水準を提示する極めて日本的な死生観にあり、細田作品の祝祭的構成に近いことが分かる
とすれば、細田作品の特徴をコンパクトにまとめることが適う。
細田作品とは、母子分離の困難さ、母の欠如の承認の困難さといった極めて母性社会的な問題系(鏡像的競合関係、ネットリンチなど)を、同じく母性性においてある言語以前の共通感覚的一体性=祝祭的な母子一体性、根源的今の水準から克服する域を引き出そうとしている。
したがって細田のアニメーションはアニミズムをベースとする、正統派アニメーションにあってアニメーションをジャパニメーションとして同じ語源のアニミズムに見出している。この点、高畑イズムの継承者といってよいだろう。
このように言いうるのではないか。
※果てスカの渋谷ダンスを全体主義のメタファーだとか完全にコンテキストを無視した要素分解でトンチンカンな誤読をしている自称プロ評論家のYouTuberには本当に呆れる
そしてこの読みの妥当性もまた細田作品から引き出すことができる。
細田作品は竜とそばかすの姫における理想と現実、二つの自己像の弁証法的な同一の水準を描くのだったが、これは否定において肯定、分離において結合、結合において分離をなす自己関係だった。
したがって問題の解決とは当の問題自身において問題を深めることでなされる。問答を分離せずその一体性であり結合と分離の結合がなされている。
だからベルと鈴との分離における合一、欠如=傷における理想との一致、心的外傷における曾祖父の結婚(結合)という構成と同じく、細田作品そのものの作りが、母性的社会問題を当の母性的心性において癒やすという構成を取っているように思う。
したがって細田作品を批評する手つきであり理論もまたこのようなものとして取り出されねばなるまい。ここでは批評する者と批評される作品とは弁証法関係にある。
また細田作品が現在性をベースに未来のミライのような根源的今の反復(隠喩)を主題として、オノマトペ的(隠喩的)なアニメーション・アニミズム表現の直接的威力を中心とした作風をなすことと母性性とも密接に関わる。
細田作品を観るのに頭はあまり必要ない。あのアニメーションの直接の今に逗留すればよい。
結論を先んじれば、内容水準はヘーゲル弁証法、表現水準はフーコー的であり非分離技術を総動員している。
※非分離技術とは日本的な述語制言語に対応する諸技術をいう、くわしくは山本哲士を参照
果てしなきスカーレット
あらすじ
強引に圧縮して示す。
理想主義の父アムレット王の娘として育つスカーレット。
その父を殺した現実主義の叔父クロウディアスへの復讐に燃える中世の王女スカーレット(19歳)が主人公。
父の仇討ちに失敗しクロウディアスに毒殺され《死者の国》(過去、現在、未来が混在した死後世界)で目覚め、そこで現代日本から来た看護師・聖(ひじり)と出会う。死者の国にクロウディアスがいて支配していることを知って、ふたたび復讐に燃える。
クロウディアスを含む死者は見果てぬ場所を目指していた。
旅のなかで理想主義者の聖と現実主義のスカーレットは成長。復讐の旅の途中、許せという父の最後の言葉を知り、その意味を考える。
紆余曲折あって最後は見果てぬ場所にてクロウディアスと自分を許す決断をするが、それによりクロウディアスは竜の一撃で消滅、スカーレットは現実世界で目覚める。
クロウディアスは現実でも自身の毒を誤飲して死んでいた。
最後はスカーレットが女王となる。
SNS批評まとめ
YouTuberが金目的で批評している内容のうち典型的なものを箇条書きでまとめる。
①復讐の連鎖と許しがテーマなのにクローディアスがご都合主義で死ぬのがダメ。
②ダイジェスト過ぎる。シーンがバラバラで感情移入できない。説明不足。
③説明不足なのに説明台詞ばっか。
④死後の世界の設定が崩壊、異世界を描く能力が無くセカイ系。
⑤ラストで女王になるのも含めて全体的にご都合主義。
⑥聖(ひじり)が弓がうまかったり万能人間だったりの説明がなくご都合主義。
⑦家族に関する保守的メッセージがうけつけない。
⑧愛と平和に関して紋切り型の説教がくどい。
このあたりが定番の批評で、僕の印象としては、作品の設定の整合性や行動などの整合性に関する不満が強い傾向があった。
後述するが詩と散文との区別すらつかない人が標準化したように思う。
スカーレットの基本構造
ミライや竜そばの構造が分かると本作の基本構造もわかりやすい。まずは物語の基本構造を把握して作品やメッセージを整理したい。
※果てスカの主題は娘が父の不在を引きうけ復讐を断念すること、これはラスアス2と似ているが両者は色んなところが違う、ラスアス2については当ブログで記事にしている
本作では母より父が重視され、スカーレットの父アムレット王が現実を一顧だにしない理想主義者となり、見果てぬ理想を欲望する。それゆえかクローディアスがその影をなすように理想なき現実主義者となり両者は対立、アムレット殺害に至る。
まず最初に一番大事な点を指摘しよう。
クローディアス=スカーレットである。これはあくまで僕の個人的読解に過ぎないが、このように解釈しないと大変にお話が支離滅裂になる。普通に観ていればこの解釈になると思う。少なくとも僕はクローディアスが死ぬシーンあたりでそう思った。
まずクローディアスは現実主義的でアムレットの理想主義をこそ憎悪し敵対していた。そして彼はスカーレットを毒殺するも自身もその毒で死んでしまう。
するとスカーレットも旅の序盤、父の理想主義を嫌悪してクローディアス的な現実主義にあったこと、そしてクローディアスと同じ毒で仮死状態にいたったことに思い当たる。
だから叔父への報復=抑止論=過剰な現実主義(理想なき現実、両者の乖離)を持ったスカーレットが自身を許すことは、父の欠如(死)を引き受けることに相当し、したがってそれは父を許すこと、つまり父の欲望=理想を欲望して自身の過剰な現実主義を改めること。
したがって過剰な現実主義=報復が断念されるとは、自身の内なるクローディアスが消え去ること。
つまりこうだ、死後の世界はスカーレットの夢の世界でもあって、それゆえ夢の登場人物は現実の客体的人物ではなく主体水準にある。
だからスカーレットの内なる冷徹な報復者=現実主義者の側面がクローディアスに布置され、その結果、父の欠如(死)を拒絶する心性の象徴として夢にクローディアスが出てきた。
ここでの理想と現実との乖離における欠如の拒絶の主題は完全に竜そばで確認した構造と同じだと分かるだろう。
そこで父(の不在・死)を許すことが自身を許すこととして、内なるクローディアス、それは決して報復することによっては消え去らぬ悪夢であるが、これを消滅させることができた。
だからクローディアスがご都合主義で死んだというのは誤読でそうではなく自身を許したことで死んだのだ。もしスカーレットがあの場面でクローディアスを殺していたらむしろクローディアスは肥大し、スカーレットを呑み込んでいた、そのように感じた。
直観的にそう感じたし、理論的にもこのように読解しないと訳が分からなくなる。
| 【果てスカ】 | 【ミライの】 | |
| 欠如した者 | 父 | 母 |
| 欠如否定者 | スカーレット | くんちゃん |
| 鏡像/理想 | 聖 幼きスカーレット | ミライ |
| 父の名 | 許せ | 最初はある |
| 主人公の分身 | 叔父 | 父 |
以上の表から分かるように果てスカの基本構造もミライや竜そばとほとんど変らない。
作中では意味欠如を構成する父の名=許せを巡って自己存在、実存を問い詰めるスカーレット。これは典型的な父の名のあり方そのもの。父の言葉(欲望の対象を示す名)の欠如した意味をめぐり自らの頭でその意味を考える、そのことで自身のあり方を主体的に見出すのだったが、もし‘’許せ‘’の意味が最初から自明であればそれは父の命令でしかなくスカーレットは命令に服従するロボットになってしまうのだ。
だから父の名は主体の意味の欠如を承認する印一般を言う。それが根源的な心的外傷と通じる。
to be or not to beといえばハムレットの有名な一節で生きるべきか死ぬべきかを意味するがラカン派精神分析ではこの問いこそが主体の根源的問いとされる。本作では父の名において欠如を引き受けることで言語的主体として誕生することが生きることとして肯定されている側面がある。
同時に生と死との混在、同一性の水準も描かれるのだが。
ちなみに、復讐=報復と戦争の主題をかぶせてこれを理想なき現実主義として問題構成する視点は、精神分析的に妥当性を持っている。
現代社会の核抑止論に代表されるパワーオブバランスは報復心をベースとし、これはフーコーによるとスカーレットと同時代の16世紀の国家と統治を起源とする。
もちろんこれは17世紀のウェストファリア条約に関係してくるだろうが、この抑止論・報復心のターム(歴史条件)が帝国的な統一ではなく複数の国家が対等に並び、互いに防衛戦力を高めて他国と競争してゆく現代の国家間関係・統治性と国家理性の原型をなす。
だから細田監督は本作で近現代の国家なるものの歴史的起源(トラウマ=ハムレット)に立ち返って、国家なるものを内省(欠如=理想の引き受け)において新しいモデルへと転移しようとしたのかもしれない。ハムレットを近代国家の心的外傷と定めるのは社会科学的にも妥当だろう。
かかる16世紀以降の歴史主義の延長にあるホッブズ的な近代国家観(抑止論)を転移する水準を探る思考の軌跡として本作を位置づけることができるかもしれない。
本作における現実主義を理想によって限界づける構成はそのまま、国家による政治的合理性といった自明視された観念・思考基盤そのものを内省して転移する経路を開くところまでは確実に理論構成している。
ただ、ではそれはどのような国家なのかまでは全く提示されない。細田作品の続編にそれを期待してもいいだろう。
また聖が終盤に人を殺すことに一貫性がないとの批判があるが、聖は現実なき理想のために現実社会で亡くなったと考えられる。その聖が理想に現実を引き受けて存在するようになることが象徴的に描写されたということだろう。
また物語終盤で出会うスカーレットに似た小さな女の子も過去の理想を愛したスカーレットの分身と取れる。自らが消し去った幼き自分を救済することと現実に理想(欠如)を取り戻すことがシンクロしている。
さらに聖が民族舞踊や歌に触れていくシーンは芸術=幻想の本質を理想にみていることの表明ともとれる。歌も踊りも映画も現実には欠如した理想を描き現実の欠如を露呈することが、今日におけるその機能だという思いが細田監督にあったのかもしれない。
散文と詩の差異と酷評の関係
いよいよ果てスカの魅力に迫る。
まず酷評のほとんどはユング派でいう主体水準としての表現系・時間系をとる本作を客体水準と誤読することに起因すると感じる。
これは詩(隠喩)と散文(換喩)との違いに相当する。
本作はスカーレットが昏睡状態にあって観ている夢と考えた方が分かりやすい。もちろん夢といってもフロイト的な個人的夢ではない。未来のミライが描いた心的外傷世界と同質で、夢であり彼岸となる世界。
まず大衆は本作を作中世界における客観的世界として誤読している。
またこの問題は細田作品の過去作にもいえる。
未来のミライもその典型だがあれは4歳児の主客未分のウロボロス的自己関係における古層的な神秘体験を巡る家族間の心理的布置を描くわけで、そこに客観的な現実としてのリアリティラインを要請すること自体ナンセンス。
そもそも異世界とか彼岸とか死後世界というのは、人類学を参照するまでもなく、夢世界と同質。だから夢は前近代において異世界であり冥界であり、死と神の世界でもあった。
あくまで近年の大衆娯楽ファンタジーアニメやなろう小説などの影響で、いつの間にか異世界や魔法の世界がフィクション内の客観現実世界という風に歪められたに過ぎない。
もともと魔法というのも、人間のイメージ=空想世界=主観が客観外界と分離しきっていないことで成立している概念であって、もとより物語そのものも主観性に属している。だから魔女の宅急便でもキキが大人の女性になると魔法は使えなくなり、唯一、それは性愛にのみ局在化する。
それゆえ近代になって魔法や呪術が否定されること(脱呪術化)で、個人の主観が他人の主観と峻別されて客観世界と区別された内面なる精神領域が登場し、またそれ以前には善行を示す単語が内面を示す意味に変化したり、文法に主語が本格的に登場したりという変化が起きている。
一番分かりやすいのが神話。日本なら大昔は古事記の神話は神話であるだけでなく、ある意味では客観的な現実の歴史でもあったが、このようなことは現代ではありえない。古事記の国産みなどのフィクションが史実だと考えるのは無理がある。
だから太古の昔はフィクション=イメージと客観現実、内界と外界の区別がほとんどなかったが、近代になると二つが峻別され、現代においては客観現実しか認められない。そうして作中の象徴の解釈仕方が変質し、作中客体→現実客体というおかしな知=批評の眼差しが蔓延するにいたりディシプリン的な全体主義=規律規範化に支配され、果てスカの誤読に至る。
比喩の形式=知(エピステーメー)は変質している。この知の変質、自己関係をなす眼差しとしての言語の変質こそが細田作品の酷評の核心。と同時にこれが細田作品を批評家が評価せねばならない根拠。
近代的な比喩としてであればイメージを主体水準(関係項でなく関係水準)で読み解ける。
しかし現代人は主客が分離した結果、客体規則に主体が呑み込まれる仕方で主客が融合。陰謀論はその典型なのだが、
つまり、近代批評と現代批評では言説編制が異なっており、現代批評の知は、物語のイメージを作中の客体として措定し、その客体は現実の別の客体を象徴していると考える。
あるいはこれと同じこととして、物語の具象性に別の現実の具象的物語をonするような批評も多い。
たとえばズートピアなら多種多様な動物=現実の多様な人種という具合に作中客体と現実客体が対応させられ、これが比喩・象徴ということになる。
しょーもない陳腐な寓話表現に失笑するしかないのだが、本来の比喩はそうではない。
※ズートピアシリーズをやたら絶賛する批評家には疑問しかない、知の水準を無視して作品内容だけしか見ていない
(※この問題は性格の類型学が分かりやすい。性格は関係であり物ではない、たとえば優しい人の優しさは客観対象ではないので優しさを物理的に観測・対象化することはできない。行動遺伝子に還元することもできない。性格を物質還元したりパターン還元するさいは必ず操作的パターン化・行動化によってコンテキストを排除する恣意的操作がなされている。事実、優しさはある人と別のある人との関係=主観としてしかありえない。このような関係水準を操作的に実体化=一般化=客体化して、関係を関係項(客体)と混同するのが現代であり規範化社会となる。これによって比喩表現から関係水準が排除されて客体to客体(客体水準)という馬鹿げた批評が蔓延)
物語が比喩だというのは、たとえば嵐が来て家がなぎ倒される。このとき嵐のその迫力や猛威といった主観的印象・関係・体験、したがってコト、情緒というべき非具象性が恐竜とか怪物といった具象的な物語イメージによって喩えられることをいう。
これが通常の比喩である。
つまり客観的で物理的な嵐が恐竜や怪物に変換されるのではありえない。そうじゃなくて嵐と私ととの関係性として現象する体験的な印象が恐竜といった具象的イメージに仮託されるのだ。
これが近代的な比喩=エピステーメーとなる。神経症水準といってもよいのだが。
※厳密には近代なるものが誤認を形成して、この主体水準を客体水準化する構造なのだが、ここでは分かりやすさを優先して近代と現代を単純に分けている
そいうわけで物語は本来、散文ではなく詩的文法理論に従うのが道理だ。
だからたとえば、竜そばであれば、よくネット世界の設定や描写がリアリティがないという批判があるが、その批判の妥当性は作品をどのように観るかに依存する。これを一義的に成立する批評とすることは不可能。
なおかつ細田守はここまでの文章を読んでくれた読者には説明不要なことだが、単独脚本以降、全て主体水準をベースとし、どこまでも詩的文法を強く持つ。
もともと物語とはそういうものなのだが、だから神話について、リアリティがないとか岩戸隠れでのアマテラスの行動は現実の女性心理を分かってないとか言っても頭が完全にイッてる人でしかないのと同じ、ゆえにその作家性を散文ではなく詩的文法に見出して論じる場合、竜そばの設定のディテール批判にしても概ね的が外れている。
スカーレットでいえばクローディアスがスカーレットの現実主義であり父の欠如を許せない自身の心の投影だという読解に誰一人至らず、みな異口同音に死後の国のクロウディアス=現実の叔父という客体水準の解釈になってしまい、ご都合主義というズレた批判が殺到する。
目覚めたあとに実際にクロウディアスが死んでいる(シンクロニシティ)ために、この誤読が強化されてしまっているのだろうが、いずれにせよ布置なのだ。なんで両者が同じ毒で死んでいるのかを問えばスカーレットとの同一性を示すことが分かるだろう。
またスカーレットという作品そのものが、いわば現代人にむけた現代人の夢そのものでもある。詩的な物語だということ。だからスカーレットの夢で死んだクロウディアスは現実でも死んでいるからといって客体水準にはならない。より厳密には主体/客体の二分法の散文的世界観を超越しての詩的文法ということになる。
既存の知を実定化して、それに作品を迎合させるような批評をしても意味が無い。映像文法に即して見方=批評の眼差しを転移することに価値があるのであって、やるべきは逆であろう。
※夢の人物を夢見手の心の投影として読むのを主体水準、現実の人物の表われと観るのを客体水準とユングは区別し、夢分析は原則主体水準で読むものとした、なお現象学レベルだと客体水準などとえず全て主体水準ということになる
逆に言うと現代人の批評の言葉がそれほどまでに全体主義化しており、もはや散文的な客体水準以外の存在を認めない(理想なき現実主義しか認めない)という所まで来ている。
また本作ではスカーレットが聖に細田お馴染みの非常に保守的な家族メッセージを言わせるシーンがある。たしかにこれはどうか、と思わなくもない。ただ、ここで僕が思ったのは本作は誰がどう見ても海外批評家をも意識した意欲作で、だから細田監督がこういうメッセージを入れると不利になることを考えていないわけがない。これまでの作品とはバジェットも違うし、ここでこのメッセージを入れたということにはそれだけ監督のなかで強い必然性があるのだろう。
まずそこをどう読むかがこちらの自由=主体化として問われている。それが許せという欠如した言葉の意味を問うスカーレット的な態度となる。だから批評の言葉もそうしてつねに内省してゆく水準が求められるのだが作品の声を無視して、好き勝手に一般論的な価値尺度を絶対正義として押しつけるゆえ本当にめちゃくちゃである。
このことは某作家の『変な○』とかいうアレな作品が恐ろしいほどにヒットしていることからも明白だろう。少し人文学に明るい人は変な○をディスクール分析して権力関係と知を取り出してみるとよい。僕の言っている意味がよく分かるだろう。
詩的文法と細田作品
では具体的に詩的文法構造と細田作品との連動を確認してこの解釈の妥当性を確認してゆこう。
細田作品は前述したとおり、イントラフェストム的=日本的である。そのことが母性を中心主題化することにも連動するのだった。
さて、詩的とは日本的と言ってよい。日本語はもともと詩的理論構成をしている。詩的だから論理的でないという人がたまにいるがそれはその人がとてつもなくアレなだけで、まともな人文学的教養がある人にとって詩的理論の論理性の高さは常識に属している。
そんな日本語は詩的隠喩表現の極地にある。たとえば俳句はその代表例だ。
『古池や蛙飛びこむ水の音』これはカエルが古池に飛び込む姿の物理学的レポートではあり得ない。これを英訳するととたんにただの客観的レポートに成り下がるだろう。
翻訳不可能な隠喩表現といえる。
この一句が詩として機能するのは語感やリズムを交えてのその場所の表現につきる。ある場所の空気感、情感、その体験的な印象のアクチュアリティ(こと)を、具体的な空間描写(物)を介して伝える。かくして俳句は個人の内面を超えた気、雰囲気を共同感覚的に醸す。
ここでは客観世界における過去から現在未来へと向かう線形因果律(換喩)的な文法規則=知の文法はまるで通用しない。
いまここに蘇るアクチュアリティとしての情感が、様々な類似の情感を帯びる思い出=イメージを連絡してそれらの総体としてある懐かしさや風情を感じさせる。今において無限の過去と未来への予感さえもが渾然一体となるコンプレックス的な表象系をなす。
このような根源的今のアクチュアリティを現象学では客観的・散文的・空間的過去よりも存在論的に先行する今として記述する。
※現象学や時間論については他記事で解説しているのでここでは割愛する
経験的な時間体験において僕たちが自己同一性を持てるのも、つど前経験的な根源的今・情感において過去や現在が同一しているため。懐かしさが典型だが初めて来る場所でも懐かしさを感じることがある。この懐かしさが今のアクチュアリティをなす。既に喪失してない根源的な過去の光景がたたえた印象・情感が、現在の空間的表象に対する印象と重なる(投影される)とき人は懐かしさを感じうる。そのつどの現在性としてのアクチュアリティが自己性もって同一して時間を隠喩的に同一しているということ。
この隠喩的同一の時間制をベースに、具象性=空間的時間制の線形因果的連続が可能となっている。この時間の二重性が言語構造と連動しているのだが、
つまり世界であり自己の経時的同一性は根源的今を介して隠喩的に同一されている。それゆえ僕たちは変化し時間経過しつつ同じ人間であり連続した世界として生きることができる。
つまり時とはアプリオリの水準では今が反復、同一しているのだ。
ここを本気で解説すると現象学と構造主義をチャンポンした独自の晦渋な理論になってしまうので、より直観的な例を出そう。
たとえば過去に勇気がでずに仲間を見殺しにして、それがトラウマとなった人がいるとする。客観的で散文的な時間において彼は決して過去を取り戻すことはできない。
しかしアプリオリな詩的時間制ではどうだろう。
この場合、いかなる過去も現在において隠喩しうる。だからたとえば関係性が類似の状況にあれば過去は取り戻すことができる。つまり、見殺しにした仲間と同じような関係性の人物と再び仲間となり、同じような状況に至ったなら、そこで勇気を出して新しい仲間を助ければ、その人物は多くの場合、トラウマ(過去)を解消する(書き換える)ことになる。
(※すっかり解説忘れたが隠喩とはあるものと別のあるものを重ね合わせて同一する比喩表現の一種で今と今を重ねること、換喩とは過去と現在を因果関係で連続すること、部分的な同一化を示す)
主体水準においては現在において過去が生起し、過去=トラウマを書き換えたといってもよい。このような体験的時間、そのアクチュアリティを詩的文法として物語にしたならば、その作品は散文的ロジックには決して嵌まらない。
このようにいうと、レトリックだと思われるかもしれないが、もともと時間とは主語の誕生以前の言語世界においては、行為的水準がベース。
事実、古層的な部族の人ならば現代においても、述語的同一性で世界と時間を語るだろう。述語的同一性とは、空間的対象・時間=客体よりもアクチュアルな根源的今であり行為的な水準・非空間的時間を真理とみる知のこと。
具体的には、主語的同一性の知に疎外された現代人ならば、鹿のように足の速い人を見たとき、彼はまるで鹿のようだ!と比喩的に表現しうる。
これは彼の本質が客観的な実在としての彼の側に見出されて、その空間的に実在する彼が帯びる雰囲気はあくまでも個人的な印象としてまるで鹿のようだ!と言われるにとどまる。
それに対して述語的同一性の知では彼は鹿だ!と表現される。比喩などなく彼の帯びる鹿っぽい印象そのものが彼のある種、客観的本性として措定されるわけだ。ここで印象は述語、行為、アクチュアリティ、根源的今に属するのは言うまでもない。
このような述語の側に実在と真理を洞察する古層の時間制では時は今の反復を本質とする。円環の反復するウロボリックな時間意識も相当程度、述語制に属しているといえよう。今において過去=トラウマが書き換えられるのだから、過去に規定されるのみならず今が過去を逆様に規定する、つまり時間は円環するというわけだ。
そこで今のアクチュアリティは、行為的であるゆえ未来を開き、また反復して自己同一する隠喩でもあるため過去をも包摂する。
※日本語の因果系はグレゴリベイトソンの線形よりメタレベルにある円環の因果系=時間系に対応する
そして徹頭徹尾こうした行為的時間、空間に存在論的に先立つイメージ・関係レベル、近代における比喩の世界、主体水準を扱うのが夢である。だから物語・幻想とは本来は詩的文法に属する。
散文形式の物語とて、その散文的な世界形式には主体的でアクチュアルな体験世界が表出されているのだが、この二つの水準が規範化社会における規範化、分離技術を介して誤認を構成し混同されてゆく。近代における、ここの誤認を鋭くついたのがハイデガーのいう存在論的差異であるのだが、
以上で本作を理解する最低限の条件はそろった。
では細田作品を振り返ろう。未来のミライにおける時間制が見事に根源的過去=トラウマの根源的今による反復にあったこと思い出そう。起源的なものの反復を介して現在における過去の変容という円環的自己同一が起きている。ここに自己関係の本質が見出されているわけだ。人間にとっての根源的な自己変容が起きるときには、決まってこの反復する起源的今が生起する。でなければ変容が成り立たない。起源と起源とが隠喩を介して相互変容してこそ私は同じ私であると同時に変化できる。
このことからも細田作品が詩的文法すなわち日本語的知をなす時間編制をなすのが分かる。
とりわけ本作はスカーレットの昏睡状態での夢の体験でもある。
だから死後の国が過去、現在、未来を含むというのも、これをSF作品的な散文形式の知(空間的時間、具象的時間)として読むのは完全な誤読で、そうではなく時間制が主体水準・私的文法規則にあるとして読まねばならない。この時間制は根源的現在性が過去や未来に隠喩してゆく、未来のミライと同じ。
繰り返すがもともと死後の世界・夢というのは人類にとって詩的時間制に属している。
スカーレットのシーンがぶつ切りでディテールがオミットされていて感情移入できないという批判についてもこれではっきりするだろう。
果てしなきスカーレットは俳句的な表現が持ち味で、その内面をある種のコトとして、いわば共通感覚的=表意文字的に表現。
そういう表現文法(知)をとっている。ここを近代的な散文体系の知として読むと間違える。
だからこそ、ぶつ切り的に象徴的な今のシーンを反復させるような映像文法になっているわけだ。散文構成であれば因果関係としてシーンが線形因果律的にシークエンスを連接してゆく構成になるわけだが、本作では詩的・隠喩的知を駆動するために、そうした因果性は後退して、根源的今をなすシーンの反復による連接が主となる。
それゆえに、本作では作画に必然的に力点がうつっている。死後の国の冒頭のおぞましい映像美もあれこそが、スカーレットの復讐に取り憑かれた心であり父を喪失したことの悲しみそのもの。と同時にこの時代を生きる僕たちの心の中でもある。
表現を主客非分離に読むこと、そうした映画鑑賞における新しい知を要請するのが本作のアニメーションとしての偉業となる。
アニメーションだからこそ可能なアニミズム表現の開拓がなされている。
またスカーレットの表情表現や所作のディテールも隠喩的な物語の表現を助けている。
まさに俳句的な外界の風景を描写することで読み手の心(場所)を生々しく直接的に顕現させる、そういう俳句的表現とアニメーションとの高次の融合。
僕は劇場で冒頭の死後世界の壮絶なビジョンを見て直観的、ほとんど本能的にスカーレット=自身の心情の生々しさ、リアリティを感じた。
総合芸術だということ、これを要素分解したり物語の言語的意味の内容だけを読んだりしても意味がない。
もっと分かりやすい例を出そう。目の前で赤ちゃんや子どもが泣いていたら、何があったとか、どういう事情がとか関係なく強制的に感情移入するだろう。そういうことだ。こうなれば誰も事情など最小限のダイジェストでもかまうまい。だから既存の作品文法を実定化して、そのおかしな物差しで作品鑑賞してもそれは全く意味が無い。
この映画は絵の力、アニメーションの力、根源的今にストーリーの経時的表現を託している、そしてそれこそが幻想表現の最高到達点の一つだろうといっている。
未来のミライではまだストーリーの具体表現レベルにとどまっていた節のある隠喩的な時間の反復を、今回はブラッシュアップし俳句的なアニメーションの表現様式の水準にまで高めている。表現プラチックを詩的知によって再編成している。
いちいち散文的に合理的理由を追及して、その歪んだ合理性によって物語のアクチュアリティを去勢する、そういう批評の言葉にうんざりする。繰り返すが、そういう壊れた批評の言葉=ディシプリン的知を転移しようというのが本作の達成なのだ。
だから全く本末転倒だといっている。これでは批評の言葉は自明視された社会常識や合理性の奴隷と化して、作品をその偏狭な眼差しによって去勢し画一的な型に押し込める権力装置となってしまう。
繰り返すが、近代的な隠喩対象=関係水準を、日本語的な知としての近代と異なる表現文法を駆動して表現しえている。したがって表現内容ではなく表現プラチックレベル=知のレベルにおいて、本作は近代水準を転移しうる極地にある。
夢での場面展開の唐突さを思えばもっとこのことは直観的にわかりやすいかもしれない。
本作は城や終盤の山、途中の砂丘などの場面の位置関係がさっぱり分からないようになっているが、ここも重要でここが高畑アニメーションの正統後継者たる所以であって、これは場面のアニミズム的共時性を示し、近代的な空間構成を回避しているとも深読みする余地を持つ。
※これを舞台転換のオマージュとする説もYouTubeにはある
風景構成法のロジックを参照してみれば分かりやすいが伊藤 若冲の鶏の群れの絵を筆頭に日本画でのオブジェクトの描画は西洋的な一点透視図法とは全く異なる。一点透視図法とは移動主体から観た数学的な遠近感であり座標的な位置関係をもった空間構成をなすが、このような空間編制が散文的・線形的な時間制を構成する。
対して場面が共時してゆく日本画ではオブジェクトは互いに現在性を持って共時している故、遠近の距離の観念を構成しない。その対象に相対する移動・観測主体(観測点)すらない。
表現系による場所の表現をことごとく散文系から外していると分かる。
ともあれ本作から取り出す批評のあり方は日常的な頭で作品を観るなということ。ただ素朴に作品と向き合い、その現在性に没入して得られる体験を改めて言語化してゆく、隠喩的(イントラフェストゥム的)な見方が示されている。
最近の批評家はまず自分の物差しが予めあって、その物差しを作品に押しつけて作品の現在性であり直接性を去勢し尽くして既存の価値フレームを肯定するように作品を貶めるという従属化・規範化の操作をなしている。こんなもの(大学言説)は批評の名に値しない!
僕もこの作品が完璧だとは言わない。とくに父の名を示す『許せ』についてスカーレットが聖とその意味を考えるシーンに関しては、なんでそんなこと露骨に台詞にするんだ?と感じたりもした。
※YouTuber情報によると舞台のオマージュで台詞が全般に舞台調らしい、このYouTuberの読みは当たっていると思う
また愛を知りたいという歌詞もストレートで隠さな過ぎるとも感じた。
気になった点をいえば、芦田愛菜の芝居のうち、強い感情表現、とりわけ憎悪表現がかなり嘘っぽいというか、ちょっとミスキャスト感で僕の物語への没入を阻害した。逆にスカーレットが明るくなっていく終盤の芝居は凄く嵌まっているように感じた。個人の印象に過ぎないのではあるが。
本作は役者の芝居への依存が高いつくりをしているので役者の人選はかなり大事と思う。
いい加減、卑怯者の批評家は批評された方がいい。作家ランキングとかYouTubeで好き放題やってて自分は批評家ランキングで序列化されるのはごめんというのは通らない。これは偉そうに政治家批判だけしてほとんど相互批評しない大学人YouTuberにもいえるだろう。
批評とYouTubeとパノプティコン
さて、YouTuberの批評がいかにも採点者的で学校の先生のようなものがあることは既に指摘した。
これはどういうことだろうか。
じつのところYouTubeのアルゴリズムそのものがそうした知の編制を成している。
つまりYouTubeはアカウントごとに個別化し、それを統計的にスコアリング。これは近代国家であり、刑務所、学校、病院、試験などがやる規律化権力=ディシプリンそのものだ。たとえばコメント欄のコメントの表示順や表示されるかどうかはそのコメントの高評価率だけでなくコメント主のアカウントに結びついた統計的スコアによって決定する。このスコアが低いとそもそもコメントが表示されない。
これは学校が試験で個別に机を割り振り個々に出席番号をつけて空間を個人化することで諸個人を個別化、さらに試験によってスコアリングして、テストの合計点から諸個人を序列化するあり方と同じだ。
つまりこうだ、点数順や成績順に生徒の順位を学校の掲示板に貼り付けるのと同じことをYouTubeはコメント欄で実行。
これはコメント欄の視聴者だけでなく、先生役をあてがわれる動画投稿主にもいえる。先生の側も再生数や視聴維持率、投稿頻度で定期テストのようにスコアリングされ、インプレッション率が序列化、まるでテスト順位を張り出すように、動画のおすすめ順位がランキングされて大衆に表示される。
おそろしいほどに学校のアナロジー。
悪巧みはそれだけにとどまらない。YouTubeでは、動画投稿主が任意のコメントにハートマークをつける全体主義加速装置が実装されている。
このハートマークはパノプティコン。パノプティコンとは近代に誕生した刑務所の一望監視塔のこと。フーコーはディシプリン権力における眼差し=欲望の構成をこのパノプティコンに観ている。
パノプティコンは看守(先生)が囚人を監視する視線が囚人からは見えない、しかし、囚人の側はつねに監視塔から丸見え。
そのため囚人はいつ自分が観られているか知ることができず、結果、看守の視線を自身に内面化し、内なる監視者(超自我)に従って自ら進んでルールを守るようになるという。
これは父性の不在の問題にも直結するが、ようするに監視する父が消え去ったことで規範への従属化が欲望される。
さて、するとハートマークの機能・プラチックは分かりやすい。本来なら投稿者はコメント返信によって対等な関係で現前して、自身の思いを見える形で表明する。
ところがハートマークはそうではない。コメントに対して意図は分からないが、好意的な欲望・眼差しの痕跡が示される。
これにより視聴者は自ら進んで投稿者の不在の意図を読み込み内面化し、狂ったように従属化。投稿者=先生の欲望であり眼差しを内面化して、あるいはハートマーク=眼差しに自身の内面を投影して、その他者の欲望へと従属化する。これがハートマークの機能。
賢明な読者にはこれがパノプティコンと同じ自他関係=権力関係をなすことが分かるだろう。
否、むしろパノプティコンをより凶悪にしたのがYouTubeのハートマークと言ってよい。
なぜならハートマークは犬笛の自他関係と全く同じだからだ。
ポストパノプティコン(ハートマーク)がポスト全体主義と観てよい。
ここが面白いところだが、フーコーは、近代社会のパストラールにおける従属化の権力関係にキリスト教の告白の自己技術を見出すが、この告白は罪を言語化する技術と言い換えることができる。
肉欲の罪を身体化・個人化してパストラール(先生)に向け言語化(告白)する自己監視・自発的従属化が告白(欲望)であり、これに対応して罪を監視するパノプティコンがあった。
とすればハートマークは罪ではなく好きを監視する眼差しをなすと分かる。もちろんこれは、近年ベストセラーとなったアレな書籍、好き(享楽)を言語化する技術に対応している。
ここのメカニズムを圧縮して示すと、かかる罪→好きへの変遷は消費社会の目的の自己完結構造に対応し、コスパ・タイパ的な目的主義がその根拠に外部を持たない自己完結性をなすゆえに無目的的な依存症的反復の享楽を生み出すモデルに対応する。コスパ的・言語社会的な目的行為はそれ自体、無目的であり依存症だということ。つまり売れるのは売れているからだというロジック、再生数(売り上げ)という数字が当の再生数の根拠と化して自己を再生産する消費モデル。目的主義は畢竟、ここにゆきつく。
かかる反復する今(自己化した享楽)という線形時間構造自身の逆接的自壊水準が罪→好きとしてのネオパノプティコンをなし、このネオパノプティコンでありネオパストラールこそが、推し活や広告言説、知の観光客化、批評言説の他罰化といった壊滅的自他関係を生じている。
言語化された享楽による欠如の埋め立てがなされ緩やかに人間が死に、狂気のポスト全体主義を完成させる自殺機関としての言語化技術がYouTubeなどのSNSをベースに駆動している。
欲望からポスト欲望へ、自体性愛化し非自己性を喪失した享楽の極地へ。人類(欲望主体、人権主体)は自身がそれと気づかず既に事実上、絶滅した。これらは知のプラチックの問題に他ならない。
学校や病院にパノプティコンを取り出したフーコーの理論に従えばYouTubeとは究極のポスト学校であり病院であり刑務所である。
今回は割愛するが検索エンジンもchatGPTも総じてこれと同じ知のディシプリン化をなす。
※デスストシリーズはいいねやハートマーク、スコアリングなどの学校化、規律規範化・個人化のディシプリン的表現のコンテキストを変更して異なる知に転移し無毒化してしまう、すさまじい作品。批判するさいにそれを否定せずにコンテキストを組み替えて転移する水準が存在するが、ここでの批評は現状認識に留まっている
補足するとハートマークとはいわば、先生でありパストラール(神父、大他者、羊飼い)が告白をし、生徒の側が率先してそれを意味づける欲望装置(犬笛)とも重なる。これを僕は逆向きの告白と呼ぶ。ディシプリン的な知における自他の未分化、分離技術における分離の失敗にあって、この自他関係=権力関係は非常に危険なポスト全体主義をなす。
細田作品を散文的に誤読してゆく現象とYouTubeのネオパノプティコン構造は完全に対応する。
父の名の消失における欠如の拒絶、それがなす法とルールの他罰化=ジャスティンの問題は細田作品のテーマでもあったが、まさに今日の社会は内省が他者批判へ、原罪・肉欲の罪・欠如が好きへ、他者が自己へとあらゆる欲望構成のベクトルが反転。この反転が現実吟味の終焉として、幻想と現実の混淆にまでいたる。
※この意味でパラレルワールドや不気味さをどうとらえるかがこの意味で近年の幻想のトレンドだったりする
というわけで学校の先生気取りの批評がYouTubeから生じるのはYouTubeそのものが学校のアナロジーでしかないからだろう。
そんでもって、重要なのは学校とは主権の法にも属しており主権者教育をなす機関で、大学が典型だが、拝金主義とは一見して鋭く対立して見えること。
しかし、グローバルテックの筆頭であり、学校の民営化をしたくてたまらない資本主義のビッグ企業のその知の編制でありアルゴリズムは見事なまでに近代国家をなす学校のアナロジー(ディシプリン、パノプティコン)なのだ。
だからナショナリズムVSグローバリゼーションなどというパースペクティブではまったく本質が見えない。
実際にはその深層において、国家主義=ネオリベでしかない。主権の法と規律規範化とは確かに他性的。しかしこの二つが連動して国家をなす。
ここに近代欲望の限界がある。この限界を超えようというのがラカンでありフーコーの最大の狙いという気がしなくもない。
YouTubeを筆頭にAIやSNSのパノプティコンは、近代の終わりとされるポストモダンの現代社会が実は、まるっきり近代国家的構造の延長にあることを物語る。僕からするとポストモダン思想そのものが近代批判の体裁をつくろった近代のターミナルそのものでしかない。
このように言うと現代社会が凄く悪くなっていて人間が加速度的に白痴化しているように思うかもしれないが、そうではない。僕の考えでは、貧富の拡大がこれ以上広がるのは、アメリカを観て分かるように、まずい。その意味では悪くなっているかもしれない。しかし日本人がアホになっているとは思ってない。
成績上位者、エリートと言われる層に関して、とくに人文知に関しては確かに急速な白痴化が進み、理論生産すらできない無能なクイズ脳東大生が当たり前となり、昭和時代のエリートとは比較にならないくらい思考力が劣化したと感じる。事実、昭和世代の山本哲士などに匹敵する実力者を若い世代に見出すことはまず不可能。
ただ平均としては大差なく、とりわけ情報リテラシーについてはYouTubeなどのネットの混沌のためにかえって向上すらしていると思う。またコロナ禍で学校に行かなくなった期間がきっかけで、かなりの割合の親が成績に固執しなくなったという話も塾業界から聞く。これは思考停止のクイズ脳が少なくなるので良いことと思う。
僕自身、これまでの人生でネットの誤情報にまんまと欺されてきた経験から情報リテラシーは向上している気がしなくもない。
おまけ:果てスカとカリギュラ
果てスカは内容レベルより映像プラチックレベルのが上位にある希有な作品。普通は逆でプラチック域が内容レベルより退行して、その作品のメッセージが逆生産を生じるパーターンが多い。
たとえば、カリギュラ2というゲームではネタバレになるが、鏡像=理想像=商品に人間は一致できないというメッセージがうちだされ、理想・規範との欠如をひきうけられない元アイドルやセクシャルマイノリティといった多数の訳あり登場人物=プレイヤーら現代人の心が鏡像との差異(欠如)を引き受けて救われる結末となる。よって竜そばと全く同じ主題を扱い、同じく鏡像の欠如=差異の引き受けを提出するに至るが、竜そばではヘーゲル弁証法・ユング派的に結合が、カリギュラ2では現代思想的に差異の側が強調される違いがあり何より、両者では知が全く異なる。
※山田玲司が典型だが、今の批評家は知・ディスクール域や表現プラチックを全く分析できない、それゆえ主題や解決内容といった内容・目的のみを論じる迷妄に陥る。あまりにレベルが低い
カリギュラ2は、言説レベルでは賢さ=クイズ王・医学部(東大理科三類)という信仰描写が徹底され、そのことに相同してトロッコ問題についても功利主義が普遍的正義だが、功利主義では人間の心は割り切れないという哲学的におかしな結論に。
これだと、普遍性(公)は個人の割り切れなさを包摂しないことになる。人権構造が解体してしまい兼ねない。現実と理想の乖離がおきる。
(※人権構造とは疎外の論理式S1→S2における交換不能(現実界)と交換可能(象徴界)との弁証法的自己関係を示す。つまりトロッコ問題とは、人間が交換不可能でありかつ交換可能なために両者の存在論的差異の同一における葛藤として出現し、この葛藤の誕生が命はかけがえないが、同時に誰もが同じ人間として平等だという人権なるアンビバレンスを構成する。この主体の言語化・主体化プロセス(疎外)の様式によって人権概念が前提する所のアンビバレントな人間観が可能となっている。ここの論理式の形態の転移すなわち人間なるものの変質が僕の近年の幻想分析における研究対象ということになる)
また医学知=クイズ王を論理性=知性の全てとしてしまう本体論の言説も、かえって理想との乖離やコミットのなさを生じる知をなす。
その証拠にカリギュラ1であった規範化の過剰さ(ルッキズム、正常/異常の峻別の激しさなど)に対して主権・権利の自然法的理念を引き出して抵抗し、そこに自由意志=主体(あるべき社会理想)を投じるヘーゲル的・カント的な葛藤の構造がカリギュラ2では完全消去。
つまり普遍性・一般性・客観論理性の審級と主観性・感情の審級とが、カリギュラ2の依拠する知においては不可避に断絶しており、そのために公私の近代弁証法的な主体化=自由の生成の水準が描写不可能に。
その知によって弁証法的自己関係の描写が不可能となってカリギュラ1にあった公私の自己関係の近代水準が消去されたのだろう。
(※感情と論理の二項対立は形式論理の知=ディシプリンの最大の特徴。実際には感情はイデアでも生理的・物理的感覚でもなくコンテキスト=知の相関者であり知と感覚との相互的な運動・時間それ自体であって論理は感情そのものなす、素朴にいえば猿に人間ほどの複雑な感情は存在し得ないということ)
そしてここが肝心なことだが、なぜカリギュラ2では、ラストでセカイ系のオチを展開しつつ、そのオチのセカイ系さを当のセカイ系物語の主人公らが台詞でもろに全否定する、という極めて奇妙な構成をとったのか、ということと以上のことが、おそらくは関わっている。
すなわち、公的水準と私的水準とが断絶された言説編制=知に依存したカリギュラ2では、物語としての私的水準と公的水準とを弁証法的に繋ぐことができない。作中でのトロッコ問題へのスタンスが示すのは、公的領域は全て功利主義で解決するということでしかない。それでは割り切れない私的水準があるとされるが、その割り切れなさは公的判断へ干渉する余地が予め奪われている。
そこでこの割り切れなさを言語的意味から逃走させるポストモダンに至る。
このため、私的な心の問題を公的に扱うと極端なセカイ系に向かってしまうのではないか。あるいは両者の連絡を否定し差異化(断絶)してポストモダン的に逃走する水準が提出されているのだろう。
それゆえ弁証法的水準ではなくポストモダン的水準としての差異が強調される描写に収斂したと考えられる。繰り返すが、だからカリギュラ1で強調された規範・鏡像関係における公的正義への欠如を巡る葛藤=主体の自由がカリギュラ2ではない。
言い換えればカリギュラ1では弁証法的自己関係=神経症主体(人権的人間)がキャラクラー=人間の前提になっていたが、2では神経症主体が消滅した。そこでフーコー水準に転移するでなくポストモダン的な形式論理の知へと頽落し、自己解離的・懐疑主義的な水準に知が留まっている。
いわゆるスキゾイド的な逃走が称揚される節がある。
ここでシナリオのベクトルを暗黙裏に規制しているものが知・ディスクールのプラチック(実際行為)。このプラチック域=無意識を洞察して批評の言葉として作品へと還元する、これがヘーゲルを超える批評の新しい言説生産となる。
つまりここに僕が提出しているのは、作家の構成する物語内容・目的を作家の意識を超えて規制しているところの知のプラチックの作動=言説プラチック。このプラチックを読む新たな批評の言葉が知をメタレベルへと転移しディシプリンを超克する知(自己技術)なのだ。これがフーコーレベルの批評水準となる。
なおカリギュラシリーズの変遷は、より社会科学的水準ではコードギアス→推しの子の国家審級の変遷に重なり、鏡像の変質=商品幻想のあり方にも直結してくると思うのだが、
このような作品主題・内容に言説プラチックが退行するために主題が逆生産となるものは多く、僕の分析によると東浩紀の観光客の哲学はこの典型と見える。
そういう意味で表現プラチックや知の域が作品主題を超えている果てスカは非常に興味深い。
ちなみにデスストシリーズではさらに知と別にゲームデザインプラチック域が決定的に重要となる。無意識=プラチック域をつど組み込むという既存の真理生産モデルとは全くことなる真理モデルを構成するのがデスストシリーズ。デススト水準での批評をなすのが、僕の理解するところのフーコーなのだ。
※フーコーについては最近、学習中だがあまりに深い思想のため、僕のフーコー理解が浅いので注意。僕は基本的にいい加減なところがある、当ブログはそういう荒削りさも売り
まとめ
マニア向けに要点をまとめてみたい。
細田作品の作品内容において提出される自己関係はヘーゲル弁証法的な自己関係をなす。竜そばはその典型で結合と分離の結合としての自己の動的な一致に力点がおかれる。理想と現実、二つの審級が分離しつつその存在論的差異を弁証法的に同一する水準。
そのうえで果てスカでは、時間制(知)やアニメーションの表現プラチックの水準は非分離技術をなし、ヘーゲル弁証法的自己関係を超える余剰を持つ。
カリギュラシリーズでは2になると弁証法的自己関係が放棄され、理想と現実、主観と客観とが独在的に分離・実定化されて鏡像・規範関係としての自己関係がポストモダン的に逃走論の次元で構成されて、結合や一致より差異が中心化する。
その物語内容・テーゼは鏡像と人間は一致することができないというものでラストに、もろに台詞でこのことが述べられるが、このテーゼは本作の言説プラチック(知)によって逆生産を生じ、かえって鏡像や規範との完全な一致への欲望を生み出してしまう。
本体論・形式論理・規範化の知を駆動するために、どこまでも独断論的な欲求をつくりだす。
※竹田青嗣が指摘する相対主義と独断論のシーソーゲームに嵌まっていると思う
両者ともに内容水準とプラチック域とにズレ・生命を持っている。
また、差異を中心化する場合、ポストモダンではなくフーコーや山本解釈の後期ラカンへの経路があり、つど意味してゆくこと、意味化してゆく行為・述語を中心化する非分離技術の自己関係水準が存在する。
そのレベルにあるのがデスストシリーズであり、果てスカのアニメーションプラチックなのだ。
終わりに
複数の作品をまとめて解説するので時間がかかった。年末年始になまけてしまい、気づいたら公開終了間近、徹夜で仕上げての投稿となった。そのため説明に冗長な所や重複的な部分があったと思う。あまりに無駄に文章が長くなってしまった。要領よくやれば同じ内容を二万字でいける気がするが倍の文字数になってうんざりしてしまった。明らかに文章が無駄に長くなった。
正直自分の考察がどのくらい妥当なのかへの自己懐疑の念に襲われ、どうにも筆が鈍った。しかし、流暢に見直している時間が全くないので、クオリティ度外視で投稿に至った。
ともあれ細田作品については過剰にロジカルな説明は避けて感覚で分かるようにしたつもりではある。それでも小難しくとっつきにくくなったのが気がかりだ。
ちなみに、おおかみこどもなど観ていない作品があるが僕のなかではバケモノの子の評価は低い。
バケモノの子に関しては露骨にジブリを意識したようなところがあり、異界の描き込みも単なるネット空間にしか見えない問題があったと思う。
バケモノの子は異界と現実との往来が自由なためネットで失敗したら現実へ逃避、現実でミスったらネットに逃避という最近の若者のネットと現実の関係を観させられている気分になった。
ただのメタバースの一種にしか見えないというか。エリアーデでいう分離の段階が全く成立していない。
だからバケモノの子をわりと賞賛していた宇多丸が果てスカを論じないのには疑問がある。明らかに果てスカのが優れていると思うのだが。
ところで、藤本タツキが面白くてルックバックなんかは細田守も参考になるのではと感じた。藤本作品は問題設定することを問題設定して問題設定を外すというフーコーチックな戦術をとっていて凄く面白い。
ルックバックではこれはネタバレになるが、パラレルワールドを引き出し空想が断念されないなかで、死を交換可能に、なお世界を同じ私の可能性として同一するものとして四コマ漫画(自己同一性)を抽出するという荒技をやっている。
ここはもうニーチェの運命愛的な偶然即必然の域すらひっくりかえして人権構造を転移しているように見える。
そんな藤本から翻って見えてくる細田像はあまりに真面目。作品における問題意識は明瞭で、問題設定をして、それに真面目に回答を与える水準に留まっている。このとき問題設定して解決するという一連の思考様式がもつプラチック(実際行為、効果)が排除されている。
そのように問題を問題化し何らかの解決をもたらそうという主体性を外してしまったらどうなるのだろう?藤本はそういうことをしている気がしなくもなくもない。そうすることで逆接的に問題にアプローチしている気がする。
ある種の細田の真面目さが、表現プラチック・表現の知と作品内容との差異を生じ、それが果てスカの欠点=生命なのではないか、そんな気がしなくもない。
そこで作品内容そのものも主題化とか目的意識ということから解放して、詩的表現文法に即す経路もありうる。なまじ目的的な内容性を持っているために細田作品が誤読されやすくなっている気がしなくもない。つまり問題を問題として意識せずに描写してその自律性に任せるような創造があるのではなかろうか。
※宮崎駿の千と千尋の神隠しなど散文的に誤読するとほとんど意味不明なのだが、絶賛されている。だから異世界そのものが主体とか内面のタームを超えて持つ自律性と躍動感を捉えたら評価が変る気がしなくもない。どこか宮崎に比して細田では夢・異世界がフロイトチックな個人的インナーワールドに縮こまっている印象があって、それが誤読を生じている節がある気がする
また国家や戦争論を主題とするならフーコーの統治技芸や歴史知、ブーランヴィリエや19世紀の二種の歴史知の解読格子の議論、生権力・生政治の論考などを参照して欲しいところである。
生権力論を知っている人からすると聖による戦争へのアプローチはあまりに近代万能論に過ぎる印象を受ける。現象学派やヘーゲル派であれば喜びそうではあるが。
皮肉なことだが近代における臨床医学の誕生、医学化による規律規範化、つまり医学知が細田作品を散文的誤読に追い込んだ当のものでもある。
近代医学が身体関係をいかに規定し、道徳や倫理に浸食し、思考基盤を汚染したか、この点の理解が抜けていると見える。近代医学の象徴でもある聖こそが果てスカを誤読させる当のものだったということ。
その点、九龍ジェネリックロマンスは医学化社会=規範化社会の本質を完璧に見抜いている節がある。こうしたところで詰めの甘さがあるのも果てスカの欠点であり生命、輝きと思える。
ともあれ近代の知のディシプリンを外した俳句的な映像表現・映像文法を開拓して批評言語そのものを転移する水準にある点、これは紛れもなく歴史的達成であり、批評家はこれを評価して自身の批評の眼差しを転移せねばならない。
あと世間では入道雲に蒼天、夏の太陽、そういう細田カラーの作品を創ればよいという意見が多いが僕はこれは反対で同じ事ばっかやるなと言いたい。果てスカくらい攻めてくれないと困る。あと脚本も細田単独脚本で良いと思う。サマーウォーズより良くなっていると感じるから。
クリエイターは攻めないと劣化する。それは僕のような理論家がせめないとカスになるのと同じ。どこまでもパンクでないと探求は不可能。
少なくとも僕は同じ論理構成の記事を二度書くのは精神的苦痛が強い。新しいことをやらないでどうする。同じことをしていろ、失敗を恐れろ、という日本人のディシプリンの過剰さは常軌を逸している。とくにYouTuberの同じ内容の無限反復には呆れる。脳死しているとしかいいようがない。あと大学の同じ理論地平に留まっているYouTuber芸人の文芸批評家にもどうなんだ?と思う。
日本人は新しいことをする人の足を引っ張る民度だからもう国内は無視してしまえば良いとも思う。日本人につける薬はない。あの世界の小島監督も海外人気に支えられているところが大きい。
というわけで、新たなる批評水準へと向かいたい人は、山本哲士の本を読むとよいだろう。
ベースショップで山本の本が売っている。また近代哲学の基礎から学ぶなら竹田青嗣をオススメする。ラカンなら松本卓也。


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